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老いと死と給油と禅問答

 給油タンクに灯油がぐびぐびと飲み込まれていくのを見つめながら、老いと死について考える。

 親の死、自分の死、他者の死、生物としての死。

 死後の世界を信じていない私にとって死とは生命活動の停止であり、自我と自認の停止であり、自我の消滅であり、つまりは「無」だ。

 それはなんと背筋が凍り震えが走るほどに怖ろしいことだろう、想像できないほど遠くはない未来、無によって私は親という無二の存在を失いやがて自らをも失うのだ。

 寒空の下、着込んだ身体の底を冷やしながら考えるには余りにも重く途方もなく絶望的な事実だ。

 そこまで考えた時に、ふと、気づいた。

 これはもしかして世に言う「禅問答」というものではないか?

禅宗(ぜんしゅう 坐禅と問答によって仏陀の心に目覚めることを目標としているもの)の修行法の一つ。修行者が疑問を問い、師家(しけ)がこれに答えるもの。

 私の中の無垢で臆病で矮小な私が、私の中にある、偉人や先人や知恵者から授かった知恵に対して「死」とは何かと問いかけている。

 私が、私の中の知識という師家(禅宗で修行僧を指導する力量を具えた者をさす)に問いかけている。

 なるほど、これは「禅問答」だ。

 形式だけの仏教や神道の作法で祈り生き物を弔い、死後の世界を信じず、神や魂や霊は居た方が面白いから居ると思う。そんなありきたりな現代人の宗教価値観しか持っていない私が「禅問答」

 お風呂を淹れようとしたら灯油が切れ、ガソリンスタンドに買いに走り、重たいタンクを持ちながらえっちらおっちらと階段を上って、差したポンプをぷこぷこさせながら流れる灯油を見つめている私が。

 人の思考とは、かくも面白いものだろうか。

 私の中には私が師事し、信じ、時に心身を助け救ってくれる偉人や賢者や先人達が、知識という形で存在しているのだ。

 それは世に名前が轟くような有名人であったり、どこで見かけたか分からないような曖昧なものであったり、あるいは友人であったりする。

 常に何かにぶつかった時、何かを疑問に感じた時、私はその人達に問いかけているのだ。

 この狭い、少し髪の薄い、頭の中で。

 灯油はタンクの中に飲み込まれ、壊れたメーターは針が飛んだまま、蓋をしっかりと閉めて灯油臭い指を嗅ぎながら私はお風呂の中でこれを書いている。

 相変わらず私の問いに答えは出ないが、凍りつきそうな冷たさで背筋の中に入り込んだ死という喪失は、今は遠い場所にある。

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