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神の立証

まるで人を狂わす魔法の鏡と、人を諭す真実を映す鏡のように。

真実はとても、簡素である。

否、世界に張った人間の感覚がとてもシンプルなのだ。


普段、私はあえて〝神様〞と〝神〞と言葉を分けて、説明しようとするが、

それは、人が考え出した宗教の中に在る〝神様〞が、人のように扱われ、まるで人形劇を繰り広げるように存在させられているからだ。

私が少ない語彙で、必死で説得を試みようとする〝神〞とは、いわば物質のように、星のように、自然界のそれのように、鎮座するもの、つまり〝ただそこに在る〞もの。

二つは〝在り様〞こそ違うものだから。


昨夜こんなことを考えていた。

いくら、私のような病気を拗らせ、現実に立ち返り、独自の宗教観念を開こうか、

仮にそれがもし、本当に世界の真理の内側に立つことで、

一般人、一般常識が、物事の真理の外側を歩き回る行為であっても。

こんなに口煩く、宗教は捏造だと語り上げる人は居るまい。

いっそ、そこに絶望を見て、リアルな生活に固く閉ざした心は、背を向けるばかりだろう。

自分から言ってしまうと滑稽だが、これは、〝神様〞と〝神〞の、貴重な観測記録である。


まだ思い付いたばかりの考案を少し整理して残しておこう。

~神の立証~

先に述べた。

私のように精神を病まし、そこで神様に触れた人間は、

中には神に目覚めるものも居るが、

それは、神を知るということであって、

神に変わる(成る)ということではけしてない。

けして違うが、

人類が過った経路を引き返し、正しい道筋に戻り、本当の神を見つめる、非常に尊い選択である。

どういうことか。

一般常識の中の神様が、物語、フィクションだからで、

人が夢を崇めているからだ。


私が密かに見つめ、信仰しようとしている神とは、

とても現実に即し、わからないものは不明に付して、

わかる僅かな部分だけ拾い上げた、実測に近い情報体。

つまり、それが、~神の立証~。


一般常識の中の神様は、けして、立証台に上がれるものではない。

何故にそれが、しこたま議論され、奮戦を招くくらいの問題となるのか不思議なくらいの、まさしく夢物語なのに。

人が正しく見つめ、知識を深めて、更に進化させていくべきは、

実際に即した神の立証、それである。

それが、命の価値を知るということ。


捏造された夢物語の中の神様に、命の価値は委ねられない。

実態のない掌からこぼれ落ちているのが、今の世の実状ではないか。


命をそのように扱ってはいけない。


これは、私が提案したい~神の立証~の先に立つ話だが。

神の立証が叶い、その基盤の上に構想される社会、命の重さは、これまでの常識とはまるで異なる。


そんな答えを導く~神の立証~とは。

もうほとんど話してしまったが、

神様と神の大きな違いは、

証明式として成り立つか否かにある。

つまり、

神様を証明しょうとすると、フィクション、夢の実体がそこに足され、そこから更に力を増して膨らんでいく。これが非常識(不等号)と言えるのだ。

神を証明しようとする行いは、

世の本当、実体を掴めるもの(人間の現実の限界)、を洗い出し、

それは、科学でも医療でも、学術で説明が出来てしまうくらいに、実体を伴った理論である。

理屈として筋が通る。

私は、そんな神を見つめる未来を望んでいる。


人間の知覚に収まる世界はとても粗っぽく、

簡素なのに、

人はありとあらゆる欲望を増幅させ、世の中を複雑にして、

魔法を使って、真実を映し出す鏡を道に陥れ、自身を破綻に追い込ませる。


現実社会は、欲望に溺れ、日増しに希釈され弱まっていくばかりの人間性をただ増長させるばかりで危うげない。

本当は、広がる一方の視界を取りまとめる、逞しい知識観念こそ育てなければならないに。


私は私なりに、世界の崩壊を読み解いている。

だから、それに立ち向かおうと、

迫り来る崩壊の音を

構築の音に

変えたくて。


だから私は、どんなにみっともないと笑われようが、こんなつまらない自分を挺して、

必死な思いで喚いている。

宗教こそ害悪。現在嘯かれた死生観こそ、罪作り。

何故なら、それを翻す、真理を手に入れたから。


何てことはない。

リアルを見つめようってだけのお話。


その中に織り込まれたどこか在る箇所に面白味を感じて頂けたならば幸い。

私も、身の削り甲斐がある(笑)。


恥ずかしいとは思わないことにしている。

私個人が正しいと思う一つを説明させて頂いた、ただ、それだけのこと。


ご拝読、ありがとうございました。

お疲れさまでした。

今日もどうか、つつがない一日を過ごせますように。

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