研究を通して学べること
1月も終盤になりました。
今は絶賛修士論文の執筆中。提出まで残り1週間を切りました。
そんな山の時期に僕がなぜnoteを書くのか。
それは、研究を締めくくる前に、研究の絶頂期だからこそ
『研究を通して学べること』
を整理して、明確にしようと思ったからです。
「学校の勉強ってなんの役に立つの?」
的な問いは、いつの時代の学生も感じるところだと思うのですが
研究も同じで
結局、『大卒』『院卒』ってブランドを得るために研究してるってのが、
多くの大学生の実態なんじゃないかなと思います。
それはそれで良いんですけど、
せっかくやるなら、その”意味”とか”メリット”を明確にした上で学んだ方が
楽しいしモチベーションも上がるんじゃないかなと思って。
ざっくり
大学進学を考えてる人や大学院進学をしようか考えている人
今研究やってるけど、なあなあでやっている…
みたいな人向けに書こうと思います。
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ちょっと本論からは逸れますが…
僕が大学院に進学した理由
(興味ない人は読み飛ばしてくださいw)
僕は高校時代、物理の研究者を目指して、受験勉強に励んでいました。
しかし、受験の結果は
・第一志望であった地方国立大学の物理学科
・滑り止めの公立大の物理学科・私立大の物理学科
全て落ちてしまい、
・一番の滑り止めで受けた、私立大の数学科
のみ合格、というものでした。
高校時代のほとんどを部活や生徒会の活動に打ち込んでいたこともあり
「浪人すれば絶対伸びる!」と学校の先生からも軽く勧められていて
親も「好きなようにして良いよ」というスタンスでした。
しかし、当時の僕は
「研究者なんて、才能の世界でしょ…
ここで落ちるような奴が、優秀な研究者になんてなれるはずがない…」
と、諦観の極みで
それなら数学科でも良いや!!!
と進学を決めました。
今振り返ると
数学科に進んだこと自体は悪くない選択だったと思ってます。
(選択の基準や当時の気持ちは、本当にダメでしたが…!!)
程よく勉強もしながら、課外活動に打ち込んでいた学部生時代でした。
さて、数学というのは非常に難解な学問であって
大学3年の頃には完全に僕は置いていかれたのですが、
実は学部生では、卒業論文を書くことは、ほとんどの大学ではしないと思います。僕の大学もそうでした。
なぜなら、『学部生ごときじゃ、論文なんてかけないから』
それほど難解なんです…
しかし、僕はもともと研究者志望なのもあったので、
「せっかく理系に来たのなら、研究ってものに携わってみたいし、
論文も人生で一本くらいは書いてみたいよ…!!!」
という思いがあり、
またその一方では、「数学は、もう無理!!ついていけない!!!」
という思いもありました。
そこで僕が思いついたアイデアが
『専攻を変え、大学院に進学すること』
そして、大学生活を通して興味を持った
『組織論』や『イノベーション』等を取り扱う大学院に進学することにしました。
大学院入試も、なかなか苦労はしつつ
大学入試の二の舞にはならないぞ!と思って頑張り
なんとか突破することができました。
そうして、新天地で大学院の2年間を過ごすことになりました…!
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ようやく本論
まずは、ざっくり
『そもそも研究って、なに???』って話をしようと思います。
僕は、大雑把にいうなら
研究=『問い』と『論証』
の形だと思っています。
①問い
「なぜこんな不思議な現象が起きているんだろう?」
「こうゆうふうに言われてるけど、納得いかない!」
「この部分をもっと詳しく知りたい!」
これらの問いが、研究の出発点だと思います。
そしてこれらの問いに対して
あの手この手を駆使して、自分なりの結論を導き出す作業が
まさに研究です。
ここで、「自分なりの結論を導き出す」と言いましたが
この作業を支えるのが、論証です。
②論証
論証: 与えられた命題が真である理由を明らかにすること。真なる前提から真なる結論を推論規則に従って導き出すこと。(大辞林 第三版)
問いに対する自分なりの結論を話すとき
「なぜなら…」
という部分、これが論証の部分です。
ある命題が真であることを結論として示す
または、自分なりの結論を仮説として導出する
このようにして、問いと結論を繋いでいく作業です。
ちなみに、この論証によく使われるものが【データ】です。
データを分析し、あるときは加工をしながら
論拠として使われますね。
なぜなら、研究においては一定の”客観性”を担保することが求められるからです。
これが研究の構造だと思っています。
以上を踏まえて、核心である
これらの作業を通して学べることについて話したいと思います。
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①『問いを立てる力』が身につく
研究の出発点である「問い」。
これがなければ、研究は始まりません。
幼い頃は持っていた、純粋な「なんでだろう」を発見する力
不思議と大人になると、
自分のその声に気づかなくなったり
その気持ちを抑えるようなこともあります。
(世界に存在する多くの問いは、答えることができないから、
自然と問いを持たないようになってしまうのでしょうか…)
しかし、良質な問いを立てることは
本質や根本を捉える上で、とても重要なことだと思っています。
(例えば…ニュートンは、木からリンゴが落ちるのをみて
『なぜリンゴは下に落ちるんだ?』
という問いを持つことで、万有引力という結論を導き出すことができたのでしょう。)
学生という、比較的余白のある期間に
自分自身に眠る「問いの力」を取り戻すことは、非常に意味のあることだと思っています。
ちなみに、これは僕の肌感でもあるのですが
研究において、問いの質は研究の質にとっても依存します。
僕はこの問いを立てる力が、本当に弱くて何度も教授に叩かれました…
ぜひ研究を通して、問いをたくさん発見して
自分の中にある「問いの力」を引き出してください!!!
②(データに基づいた)『客観的な論証力』が身につく
丁寧に議論を積み重ねていく上で
物事をロジカルに分解・編集・組み立てをする力
思考の体力
そして、論証していく中での厳密で客観的な態度
などが鍛えられます。
これは社会でもいろんな場面で、求められる力だと思います!
なぜなら、社会は客観的なものが好きだからだと、個人的には思っています。
(個人は、客観的なものは好きじゃないと思うんですけど。)
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最後に
研究を通して学べること
細かくあげるとキリはないかもですが、今回は「研究とは」から考察して
①問いを立てる力
②客観的な論証力
の2つである、と話しました。
そんな中で、少し話を戻して…
僕は大学受験の失敗を機に、自分には才能がないと考え研究者を諦めました。
そのころは「研究とは何か」について、深く考えたこともなく
頭が良い人=テストの点が良い人が、研究者に向いていると考えていました。
でも、改めて考えてみると
研究者に一番必要なのは問いを立てる力ではないかって僕は思います。
(そして改めて、僕は研究者には向いてないんだろう…と思います。笑)
だから、研究者を目指している人がいたら
大学受験の失敗とかで自分の才能を見限ったり諦めたりしないで欲しい
そして、問いを立てることを、豊かにして欲しいなって思います。
そして、論証についても最後に触れると
研究においては論証の「客観性」が問われますが
社会においては、もっと『主観的な意見』がたくさんあって良いんじゃないかって思います。
こだわりとか、遊び心とか、アートとか、そうゆうものに近いと思ってます。
客観的なものが重宝されがちですが
それはもう溢れかえってしまっているし
それはもうAIとかに代替されるんじゃないかなって思うので。
うまくバランスをとって行くと、結構良い感じなんじゃないかなっていう
僕の主観的な意見でした。笑
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