小説「あの子人形になったって、風」(試し読み)

プロローグ

 
 右腕、左脚、右脚、右腕、左腕、右腕、右脚、左脚、右脚、左腕、右腕、右腕、右脚、左腕、左腕、右脚、右脚、左脚、左脚、右腕、右腕右腕、右腕、左腕左腕左腕、左腕、右脚右脚、右脚右脚左脚、左脚左脚左脚、左脚、
 昨日来た客が滅茶苦茶に並べ替えてしまったせいで、もとどおりに直すのに時間がかかった。紅色の壁に囲まれた展示室、天井へ向かって伸びる手脚の、指先はどれも凍ったように動かない。
 展示室の整理を終えた珠紀たまきが受付に戻ってくると、closeの札を下げたガラス扉の向こうで揺れる人影に気がついた。
 開店時間にはまだ五分ほどはやかったが、内鍵をあけ、扉をひらく。と、押し返されそうなほどの突風が吹いた。油蝉が鳴いているせいか、いまはなにも運んでいないのか、ただ風の音だけが珠紀の鼓膜を揺らした。
 突然ひらいた扉を警戒するように後ずさりした女は、よほど日焼けしたくないらしく、黒い長袖のTシャツの下に、さらに黒いアームカバーをつけていた。ここの客なのか、あるいは古びたビル群のなかにぽつんと立つローズピンクの建物が目に留まっただけなのか判別しかね、「こんにちは」とだけ声をかける。女は深くかぶったチューリップハットをさらに深くうつむかせ、固まったままだ。
 客ではなかったのかもしれない。扉を閉ざしかけた瞬間、女が小さく一歩を踏み出した。
 女を受け入れてから扉を閉めると、風の音も蝉の声も壁の向こうに遮られた。珠紀と女以外に人間のいない店内には、余分な音はなにひとつない。
 小さく呼吸をして、控えめながらも芯のある声で、女が言った。
「風の噂で聞いたんです、わたし」
「はい」
 女は、床のタイルをじっと見つめていた。
「わたしの身体を、人形にしてください」


  

 Ⅰ


 幕の向こうは陽だまりのポーランドだった。まばたきを繰り返し、光に目を慣らしていく。バルコニーで読書をするコッペリアの、静かに美しい顔を見つけた。
 村娘のスワニルダは、ふわりとしたチュチュスカートを鮮やかに翻しながら、コッペリアへの挨拶の舞いをしてみせる。重力を感じさせないほど軽やかに、回り、飛ぶ。
 完璧に整えられた箱庭のような舞台に、惹かれた。
同時に、そこはわたしが一生足を踏み入れることのない世界だとも悟った。わたしは一生バレリーナにはならない。そうでなければ、この光を純度百パーセントの感動では受け取れなくなると予感した。
 社会見学のバレエ観賞会で、十歳のわたしが下した決断は、いまでも正しかったと思う。
 わたしはただときどき、ステージの光を瞼の裏側に映し、そのたびにそっと憧れを寄せるだけに留めた。わたしの身体が紛れ込めば、あの均整を壊してしまうとわかっていた。
 
 脱衣所で服を脱ぐと、洗面台の鏡がわたしの身体を容赦なく映し出す。
わたしの両手脚や腹や背中には、花畑のように、あるいはゴミ捨て場のように、紫や、黄色や、緑や、茶色や、黒や、そんな色とりどりの、歪な図形を描いた痣があった。生まれたときはうっすら浮かんでいただけだったそれらの模様は、成長するにつれ徐々に濃くなってきている。
 小学校にあがって最初の身体測定のときには、この痣のせいで虐待を疑われた。わたしの両親は、痣のあるわたしにも痣のない妹にも同じように接していたので、先生にもそのとおり伝えたけれど、小学一年生の証言は、全身に散らばる痣という証拠には敵わないらしかった。
 両親の無実を証明するため、わたしはひと月ほど児童養護施設で過ごすことになった。同年代の、それぞれなにかしら家庭に事情を抱えているらしい子どもたちと一緒に、決まった時間に起き、決まった時間にごはんを食べ、決まった時間に眠る、正しい生活を送った。施設の子たちは小学校のクラスメイトとは違い、わたしの痣についてなにも言わなかった。わたしは少しだけ、両親以外のおとなたちが言うように、家族と離れて暮らすことでこの痣が消えるかもしれないと淡い期待を抱いていたので、ほかのひとには痣が見えなくなったんじゃないかと錯覚しかけた。
 もちろん、わたしの痣は依然として、わたしの肌にあり続けた。一か月の生活を経て、これが生まれつきの痣であることが証明され、今後も薄れたりはしないことが証明され、家族の無実が証明され、わたしは何事もなかったかのように、もとの家に帰された。
 わたしの身体は小学校の教室において、いとも簡単に、わたしに「妖怪」のレッテルを貼りつけさせた。放課後、ランドセルに教科書を仕舞っているときに、背中から牛乳をかけられた。振り向いた先にはクラスの男子三人の笑い顔、その手には給食に出た牛乳のパックがあった。妖怪の肌を白くするためだと言って、さらに鼠色に湿った床雑巾を投げつけられた。先生はすでに職員室に戻っていて、ほかのクラスメイトもだれひとり近寄ってこなかった。
 繊維の隙間にたっぷりと牛乳を吸いこんだ服は、下校中もひどく臭った。家に着くと真っ先に脱衣所へ行き、牛乳臭い服をすべて脱ぎ捨て、シャワーを浴びた。牛乳の臭いは落ちたけれど、ボディーシャンプーやせっけんでこすっても落ちない汚れが皮膚の内側からこびりついているのは、どうしようもないらしかった。
 生まれつきの痣を理由にいじめられるなんて理不尽で、わたし自身にはなんの非もないとわかっていた。わたしには、生まれつきのこの身体をカラフルでおしゃれだと思える日もあったし、そういう宿命のもと生まれただけなのだからなにも後ろめたく思う必要はないと言い聞かせる日もあったけれど、この痣にまみれた身体を持っている限り妖怪にされていじめられるか可哀想な子にされて同情されるかのどちらかで、静かには生きていけないのだと気づくのに、そう時間はかからなかった。
 話を聞いたおとなたちがきっと全員納得し仕方ないと言うだろう経緯で、わたしは三年ほど不登校になった。一日中自室で本を読んで過ごすわたしに、両親もなにも言わなかった。言えなかったんだろう。そのあいだに、かわいくて明るい一歳下の妹は、運動会でリレーの選手になったり硬筆の作品で入選したりしていた。
 母はわたしに、何度でも、あなたは痣があってもかわいい子、だいじょうぶ、と言い聞かせてくれたけれど、それはわたしが母の娘であるからで、他人の子だったら見て見ぬふりをされていたのだろうとわかっていた。わたしは母が、テレビに出ている新人アイドルに向かって、そんなにかわいくないね、とつぶやくのを耳にしたことがあった。
 やがて読書にも飽きてくると、夜の散歩に出かけるようになった。人気のない夜の街は世界が終わったあとみたいで、妖怪のわたしが滅ぼしてしまったような思いに囚われてきて、すぐに帰った。試しに昼の散歩に出かけると、平日の昼間からふらふらと出歩いている痣だらけの小学生には親切なおとなが八の字に下げた眉で声をかけようとするのだった、逃げ出して家に引き返して、結局、どんなに暑い日でも長袖の制服とスカートの下の黒タイツを身に着けることを徹底したり、水泳の授業をすべて見学にしたりといったいくつかの制約を自分に課して、週に一回か二回くらい、またぽつぽつと通い始めた。
 三年生まで完全な不登校を貫いていたわたしにとっては、小四の社会見学がはじめての校外学習だった。だから余計にそのステージで観た光が、つよく目に焼きついてしまったのかもしれない。新品のフィルムで、いちばん初めに撮った写真のように。思い出のフォルダをクリックすれば、いつでも真っ先に表示されるデータ。
 身体に関係なく成果が出る勉強は、きらいではなかった。中学高校にかけて成績はずっとよかったが、通知表に記された先生のコメントからは、あなたは(全身に醜い痣があるというのに)がんばっていてすばらしい、というニュアンスが読み取れてしまうので、まともには読まないようにした。ただ両親へ、学校でもそれなりにうまくやれていると取り繕うための道具として、機能した。どんなにがんばったところで、痣があるのにがんばっている子、という評価の檻からは逃れられないらしかった。
 不登校のときに本を読み漁っていたことを思い出して、大学は文学部に進学した。とくに将来就きたい職業があるわけではなかった。ただ、少しでも静かに暮らせそうな学部がよかった。
 わたしに自主的に近づいてくるような同級生は、こんな痣がある醜い子でも親しく話しかけられる優しい自分、に酔っているだけに見えて、友達と呼べるような存在はひとりもできたことがない。もちろん恋人などいたことも、欲しいと思ったことさえなかった。
 大学には制服はないので、毎日長袖に長ズボン、帽子とマスクで肌のすべてを隠して通学している。一年中真っ黒な服を着ている変なやつ、と思われることは、全身に痣のある醜いやつ、と思われるよりはずっとましだった。
比較的薄い顔の痣はメイクで隠すことができるが、身体、とくに手脚に浮かぶ痣の色は、子どものときよりまた一段と濃くなっている。それはもう、生まれる前から世界に暴力を振るわれ続けているみたいに。
 
「もし都合がついたら、来てくれないかな」
 わたしに向けられた言葉ではないとはわかっていたけれど、なんとなく声のほうへ視線を向けた。
「ごめん、その日はバイトがあって」
 三限の授業を終えて教室を出ていこうとする学生たちに、如月きさらぎさんがなにか、小さな紙片を差し出しては断られているらしい様子が見えた。
「私も。ごめんね」
「そっか」
 如月さんは、減らない紙片を手持無沙汰に指先でいじりながら小さく息をつき、ふとこちらを見た。いつのまにか、教室に残っているのはわたしだけになっていた。
 売れ残りの、値引きシールが貼られた惣菜に手を伸ばすような緩慢さで、「もし、よかったら」と如月さんが差し出したその薄桃色の長方形には、〈峰丘バレエスクール発表会〉と印刷されていた。開演は来週日曜の午後二時から。演目は、コッペリア。
 コッペリア、とつぶやくと、如月さんはうなずいて、知ってるんだ、と言った。幼稚園のころからずっと、彼女はバレエを習っているらしい。あまり目立たない子だと思っていたが、バレエという星を頼りに改めて彼女の姿を見つめれば、無造作な服を着ていても様になる長い手脚や、シンプルなネックレスの映える長い首に気づかされた。あまりにも自然にそれらを纏っているから、これまではあえて意識にのぼらなかったのかもしれない。きっとバレエ衣装もよく似合うのだろうと、容易に想像がついた。
「行ってもいいかな」
 顔を上げると、如月さんは虚を突かれたように一瞬黙ってから、うん、と言った。




 11月11日(土)、文学フリマ東京37にて販売する冊子に全編掲載しています。よろしくお願いします。


あの子人形になったって、風


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