「もう期待しない」に込められる諦めとやさしさ
おはよう。令和3年3月22日。5時41分。
お父さんね、「もう、期待しない」と言われたよ。誰からとか、何を、とかはちょっと言わんけど、まあ、言われたわ。
このことばを聞いた瞬間ってのは、すごく寂しくて、ショックやったんよね。「ああ、もう、自分は頼りにされていない。役立たずなんや」ってね。
でもね、このことばの中には、お父さんへの諦めと、一種のやさしさみたいなものが込められている。
なにかに期待しちゃうと、その通りにいかなかった時の悲しみが、すごいやん。落ち込んでまうやろ。
でも、生きてたらうまくいかんことばっかりやん。「ああなったらいいな」「こうなってほしいな」っていう期待って、実は結構自分よがりで、他力任せなところがある。
んで、もうひとつは、相手に対してプレッシャーにもなるわな。「ああなったらいいな」「こうなってほしいな」と言われたことに対して「応えなきゃ」っていう想いになるやん。んで、その期待に応えられなかった時の苦しさというか、自己嫌悪というか、ね。
期待ってさ、あんまりいいものを生み出さないような気がする。諦めとやさしさって言ったのは、そういうことなんよ。
お父さんは期待はずれなんだと思う。それ自体は悲しいよね。でも一方で、期待に応えなきゃっていう想いから解放されるのは実は楽だったりする。
期待する方だっても、勝手に期待して、その通りにいかなくて落ち込む、ってことがなくなる。
ありのままを見て、受け入れていこうぜ。ってことなんやね、きっと。
お父さんを期待はずれと見るか、充分やっていると見るかは、その人しだいで、お父さんはお父さんやねん。
「もう、期待しない」
突き放したようでありながら、やさしいことばなんやなあと、受け止めたよ。悲しいけどね。
もちろん、言われたこちらとしてはこのままではいないけど、過度な期待っていいことなしやなと考えさせられた1日でした。
今日は、もう起きとるわな。んじゃ、6時10分から修行な。
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