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人間ですから。

こんにちは。

先日は楽しむ姿勢を見せることってすごく大切だよね、プラスの感情もマイナスの感情も人に伝播するものだよねということを書きました。

今日ももう少し深堀りしてみます。

例えば前回の記事で書いた「楽しそうな姿」ってのが相手に伝わる要素というと(音楽、演奏以外の部分も含めて考えます)、

・表情
・仕草(少し大袈裟だったり?)
・声のトーン
・ポジティブなワード

などが挙げられると思います。


特に表情という要素はかなり大きいと思っていて。
ここ数年、それこそコロナ禍からマスクを日常的にする方がぐっと増えたじゃないですか。
※マスクをするしない問題はそれぞれの正義があってどっちが正しいかなんてないと思ってて、ここでしてるのは感染症対策とは全く関係ない話です。念の為。

このマスクで口元が見えないっていうのは、コミュニケーションをはかるのにはかなり大きな損失になると体感しています。
例えば家族であるとか付き合いが深くお互いのパーソナルな部分を知っている者同士であれば、表情が見えなくともある程度感情や意図を汲み取れるところはあると思います。

それが初対面だったりすると、急に難易度がぐっと上がります。

当たり前のことを言うようですが、結局コミュニケーションって相手ありきです。
意識的にやっているわけではなくとも相手の反応を見てこちらもどう出るか…と状況に順応しようとしたり、相手の心情に歩み寄ろうとしながらこちらの言動を選択することがコミュニケーションでしょう。
(情報が相手に伝わればいい、ただそれだけであればコミュニケーションというより連絡事項です)

中には相手がどう出ようがこちらのスタンスは変えません!という信念を持った方もおられるかと思いますが、例えば相手がにこやかに接していることに不快感を覚えるって人は稀でしょう。

表情が見えないことで生まれる相手との心理的な距離というのも、はっきりと認識したのは、マスクつけっぱなしの期間ではなく、その時期を経た上でマスクを取って従来のコミュニケーションの距離感が戻ってきてはじめて認識できた、という方が正しいかもしれません。

ただマスクをしてるか否かだけの違いなのに、自分がマスクを外した途端に血の通った人間同士らしいやりとりになるというか。
こちらが微笑んだら相手の表情も朗らかになりますし、なによりすごく目線が合う感触があったり…

なんて書いてますが、これも相手は極めて友好的に接してくれていたかもしれないのにこちらが気づけなかっただけの可能性すらありますしね。コミュニケーションを図る上での弊害になっていると言えるでしょう。


なんだかどんどん脱線していく気もするんですが、もうひとつ思い出したので話しちゃいます。

以前、業務内容はほぼ同じでポジションが対面、遠隔両方あるなんていう接客のバイトをしたことがありました。
詳しい内容は控えるんですが、対面、遠隔っていうのは要するに一方はお客様の前に立って、一方はコールセンター的なお仕事ということです。

やってることは本当に変わらないんですよ。
同じ内容のことを同じ言葉遣いで…ですが面白いことに遠隔と対面ではまるで違って。
遠隔になった途端に、いくつか接客業経験したものの、こんな剣幕で怒鳴られたことはないなってレベルのことがかなりの頻度であるんです。

それも含め仕事ですし全然なんとも思ってないんですが、もちろん最初はびっくりしましたし、顔が見えないってだけでこんなことも言えちゃうんだという気持ちはありました。
お客さんの前に立ってるときは、怒鳴られるどころかむしろ「どうもご親切にありがとう」的なテンションで接してくださる方もすごく多かったので余計に。

一度機械を通して問い合わせるという煩わしさからくるものもあるでしょうし、もしかすると私が声に感情を乗せるのがとびきり下手だったとかいう理由かもしれませんが。

でもやはりどこかお客様側にも、相手の顔が見えることで「人と対話してる」実感が湧いてくるところがあるのかな~なんて考えたりしていました。


ここまで書いておきながらどこまで最初の話と繋がるか不安なのですが…要は普段どれだけ視覚から得た情報を重視しているかという話です。

マスクがどうだとか、顔が見えてないからどうとかいうのはあくまで一例でしかなく、最初に挙げたような表情、仕草、声のトーン、ワードチョイスだとか他にもたくさんのそこから得られた情報を掛け合わせ、状況判断を行っているのでしょう。

ですから視覚情報を失う云々というのは、コミュニケーションを取る上ですごく大きなパーツを失ったのと同義であるという話です。

こう考えると、人に何かを伝えるためにはどんな要素が必要か、不足しているかを逆算することもできるし、伝えるための要素をどんどん盛っていくこともできる気がしますね。


最後に音楽の話にシフトしましょう。

まず演奏を届けるとなったとき、音に伝えたい表情を乗せるためにはどんな風に演奏するといいんだろうとあれこれ工夫してみる時間は大前提として存在するかと思います。

ここでまず「ただここに出た音を聴いてくれればそれでいいんだ」というスタンスなのであればひたすらその時間に終始するのもひとつの選択ですから全然アリだとは思うんですが、さすがにもう一歩二歩ぐらいは聴き手がその音楽に歩み寄れる工夫をするでしょう。

それこそ以前noteで書いた視覚情報が与える影響の話もそうです。
少し引用してみます。

メインは音であるとは言え、聴き手は目の前に奏者がいる以上視覚情報として絶対に奏者が意識の内に入り込んでくるというところです。

視覚情報が演奏を後押ししてくれる時もあれば意識が分散してしまうこともあると思うのです。

例えばさっき「苦しそうな顔はパフォーマンスとしてアリ」といいましたが、いかにも穏やかな曲調でリラックスして聴きたいときにふと奏者の顔が目に入ると…みたいなことも起こり得ますよね。

少なくとも管楽器は、気持ちよ~く吹いているようでも実はめちゃくちゃハードなことをしていたりなんてことも珍しくないので難しいところではありますが、いくら音が最優先と言えどビジュアル的な側面も完全に捨ててしまっていいところではないと私は思うので…。

↑この記事から引用しました。

仮に全く同じテンポで、同じ抑揚で、同じ技術力で演奏したとしても、奏者の様相ひとつで聴き手に与える印象が変わっちゃうんじゃない?ってことです。

まず譲れない音の部分をがっちり固めた後は、こんなことを考えてみてもいいのかも、というか考えていくべきなのではと自分自身に言い聞かせています。

結局演奏する側もそれを聴く側も人間ですから、あらゆる条件に左右されて当然ですしそれが生の音楽の面白いところでもあると思います。

音を出す以外のことにもしっかり頭を使って全部込みで「パフォーマンス」、ここを忘れてしまわないようにしたいです。


ん~、とってもまとまりのない文章でした。
時には勢いも大切。

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。


【告知】

8/24(土)14:00開演
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※私個人のSNS(noteから飛べます)のDM等でもチケットご予約いただけます。

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