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「特撮映画技師 松井 勇の合成技術に関する執筆論文」 髙橋 修(東京女子大学)

東京女子大学の髙橋修准教授(学芸員課程担当)が「特撮映画技師 松井 勇の合成技術に関する執筆論文」を発表した。日本映画最初期の特撮映画技師・松井勇(1894年~1946年)が残したハリウッド時代の英文の手帳やメモなどの資料の研究がまとめられ、髙橋准教授は「この論文は萌芽期における日本特撮技術の歴史的実態を明らかにする上で貴重な資料」だと話している。以下、本稿では論文を要約したものを紹介する。論文は下記のリンクからPDFで読むことができるのでご高覧いただきたい。

松井勇は愛知県豊橋で生まれ、青年期にアメリカへ留学、ハリウッドで第1回アカデミー賞技術効果賞を受賞したR.ポメロイに師事し、特撮技術を学んだ。ポメロイの代表作は聖書の世界を映画化した『十戒』(1923年)があり、モーゼの力で紅海が割れるシーンは特に有名である。松井はポメロイから当時最先端の技術を学んだただ一人の日本人である。

松井勇写真

松井 勇(1894年~1946年)

日本帰国後は映画の合成技術に関する特許を取得し、特撮を活用した映画を制作・発表した。代表作として『浪子』(1932年)、『忍術猛獣国探検』(1936年)などがある。『ゴジラ』(1954年)で有名となった円谷英二より歴史的に早く活動を開始した松井だが、その技術は日本映画界にとって早すぎたのと、映画の興行結果も思わしくなかったことから彼の名前や業績は映画史の中に埋もれてしまった。しかし、特撮技術に目をつけ、円谷英二東宝に招聘した東宝のプロデューサー・森岩雄(1899年~1979年)が松井に接触し、松井の技術に注目していたことが書簡から判明している。

特撮シーン

松井勇による特撮シーン(映画名不詳)

今回発表されたのは下記の2つの論文である。

【資料A】「Transparency Process」

【資料B】「研究部の歩み 理研科学映画研究部」

【資料A】は、松井勇が日本で特許を取得したトランスペランシーという合成技術に関する専門論文である。執筆時期は特許を取得した1931 年(昭和 6年)以降と推察される。R.ポメロイのスタジオで習得した合成技術の近い将来における本格的活用を見越し、あらためて体系的に技術の詳細を記録しようとする想いが彼の内面に沸き起こり、これが【資料A】の執筆動機となったと捉えられる。

松井勇手帳

トランスペランシー撮影の状況図

【資料B】は「研究部の歩み」との表題から、理研科学映画研究部においてその歴史を編纂する動きがあり、松井勇が所属した合成班部分の原稿といえる。1945 年(昭和20年) 2 月がその執筆時期である。これは松井勇の映画に対する考え方が直截的に記載され、彼の映画観を探る上で恰好のテキストとなる。本文の内容でとりわけ興味を惹かれるのは、あらためて特撮技術の重要性について述べている点である。具体的には、「映画美ハ自然ノ再生デハナク、映画的創造サレベキモノダ、ト云フ考ヘガ即チ、コノ研究ノ根本ヲナシテヰルノダ」とあり、映画とは画面を「創造」することが本質であるとし、その実現のためには「『トリック』ハ必要欠クベカラザル製作過程上ノ要素トナッタ」とあるとおり、あらためてトリック(特撮)の重要性を喚起する。

最も重要なのは最後に記された「映画ハ科学ノ産物ダ。映画技術ノ研究者ガ
ソノ歩ミヲ速クスルト、映画ノ芸術家ハソノ発見ヲ芸術化スルコトニ創意工夫ヲコラスコトニ於テ、映画芸術ニ進歩ガアル訳ダ」とした箇所である。この文章は森岩雄(1899年~1979年)が、1931 年(昭和6年)に『キネマ週報』56で発表した「映画制作上の革命 松井 勇氏の仕事」の一節「映画は科学の産物だ。映画の科学者がその歩みを速くすると、映画の芸術家はその
後から、その発見を芸術化す。そのことが絶えない間、映画芸術に進歩がある」とほぼ同文である。

森岩雄は映画プロデューサーとして数多くの名作を残し、また、産業としての映画の近代化に尽力した。早くから円谷英二の特撮技術に注目をし、彼に活躍の場を与えた人物として知られる。だが、森岩雄と特撮技術との関わりには前史が存在する。この大きな契機こそ森岩雄と松井勇が交誼を結んだことに他ならない。映画は科学の産物であり、その発展を牽引するのが特撮技術である。特撮技術によってこそ日本映画に革命をもたらし得るとの信念が森・松井によって共有されていたことが読み解ける。


現実的には両者の協働関係は挫折を迎えたが、後にこの信念が基となり、森 岩雄と円谷英二との邂逅が果たされ、日本特撮映画の興隆をもたらした。それはやがて日本のサブカルチャーの主軸を担うジャンルとして現在につながっている。換言すれば、森・松井の出会いがその原点の役割を歴史的に果たしたことになるのである。かかる意味からしても【資料B】の有する歴史的価値は強調してもなお余りある。近い将来、福島県須賀川市内において「特撮アーカイブセンター」の整備・公開が実現される予定である(「日本経済新聞(電子版)」2019 年 2 月 20 日他)。

日本が誇るサブカルチャーの歴史について、学問的視点から実証的に研究するための基盤が築かれようとしている。こうした状況下にあって、この 2 点の論文は萌芽期における日本特撮技術の歴史的実態を明らかにする上で貴重な資料といえよう。


髙橋 修(たかはし おさむ)
1971年生まれ。東北大学大学院文学研究科博士課程後期修了。博士(文学)、東京女子大学現代教養学部准教授。主な著作は、「甲州博徒論の構想」(平川新編「江戸時代の政治と地域社会 第2巻 地域社会と文化」清文堂、2015年)、「甲州博徒抗争史論」(「山梨県立博物館研究紀要」7、2013年)、「近世甲府城下料理屋論序説」(山梨県立博物館展示図録「甲州食べもの紀行」2008年)ほか。


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