見出し画像

がんばってテレビを観ていた、幼い私へ

もよ

今日は8月31日だ。

この数字をみただけで、私の心は「教室」に戻っていき、今でも少しだけキュッと緊張する。


また明日から、大人に決められた場所で、大人によって分けられたグループの中で、大人に決められたことを、限られた時間の中でやる日々が始まるのだ。


子どもの私にとって、教室の中は「世界のすべてだ」と言っても過言ではなかった。たった30人前後のクラスメイトと、1人の先生だけの世界だけれど、その場所で1日の長い長い時間を過ごすのだ。

その小さい世界の中で、たまたま本当に気の合う友達ができればラッキーだけれど、30人のうち女の子は15人くらいで、たったそれだけの人数の中に気の合う友達がいるとは限らない。


気の合う友達のいない世界で、長い長い時間を過ごすということは、「私のことをわかってくれる人なんて、きっとこの世にはいないんだ」ということをジワジワ身体に浸透させていくようなもの。

子どもにとっては、ただ目の前にある世界を受け入れて、なんとかその場所でやっていく術を身につけるしかないのだ。




ふと、がんばってテレビを観ている、幼い頃の私の姿が脳裏に浮かんだ。


私は小学生の頃、キムタクを知らなくてびっくりされたことがある。

キムタクを知らないということは、ほとんどの芸能人を知らないということだ。テレビの話題になると全く話についていけなかったし、「知っていることが当たり前」として話す子がほとんどなので、「知らない」と言うタイミングを逃してしまうことが多かった。愛想笑いをして話を合わせることはとても大変だったし、「知ったかぶり」をしている自分のことがすごく嫌いだった。


それならば、自分もテレビを観て、テレビを好きになればいいのだと思った。みんながよく観ているテレビ番組をがんばって観て、芸能人の顔と名前をがんばって覚えて、「好きな芸能人は?」と聞かれたときにパッと答えられるように、好きな芸能人を決めておいた。


でもテレビを観ていると、だんだんボーっとしてくるのだ。会ったことも話したこともない人に、どうしてそんなに夢中になれるのかが私にはわからなかった。もちろん、キレイな人だな、かわいい人だな、かっこいい人だな、おもしろい人だな、という感情は湧いてくる。でも、平らなテレビにうつる人たちは、私にとっては街でただすれ違う知らない人以上に遠い存在に感じられた。


大半のクラスメイトが夢中になっていることに夢中になれない自分を責めた。どうしてみんなが好きなことを好きになれないんだろう。どうしてみんなが興味のあることに興味を持てないのだろう。どうしてみんなが笑っていることで笑えないんだろう。


好きになろうとしてなれるものではないんだと思う。興味を持とうとして持てるものではないんだと思う。笑おうと思っても笑えるものではないんだと思う。


心が動く瞬間を、自分でコントロールすることはできないのだ。


心が勝手に動き始めて、その物事の方向に勝手に歩いていく。心が勝手に歩いていくことこそ、好きなことなのだ。興味のあることなのだ。心の底からおもしろいと思えることなのだ。

その歩みの方向を変えることはできないし、その歩みを止めることもできない。なんとかねじ曲げたり、強制的に止めたとしても、反発する力は働き続けて、きっと何もかも物事がうまく運ばなくなるにちがいない。


大人になった今、そう自信を持って言える。

好きなことは好き。嫌なことは嫌。もし私がそう言ったことで離れていく人がいたのなら、離れていけばいい。


でもそう思えるのは、自分の居る場所を自分で決められて、一緒に過ごす人を自分で選べて、今自分がしたいことを選べる、大人になった私だからなのだ。


教室の中が「世界のすべて」だと思いこんでいた幼い私には、そんなふうには到底思えなかった。


「気の合う人がこのクラスにはいなかったから、私は1人でいる」というような勇気はなかなか湧いてこない。1人で過ごすには、あまりにも長すぎる時間を学校で過ごしているからだ。

自分を限りなくうすくうすくして、友達らしき人と一応群れている安心感と共に学校生活を過ごすことと、自分を濃ゆく濃ゆくして世界から背を向けられている心細さを感じながら1人で過ごすことを天秤にかけると、ギリギリのところで前者が勝ってしまうような感覚だ。だから私は前者を選んでいた。


でもギリギリのラインなのだ。自分を限りなくうすくうすくすることは、しんどいし退屈だし楽しくないし、窮屈で窮屈でたまらない。まるで決して逃げられない教室という牢屋に閉じ込められているような気持ちになった。



群れるために、周りの人たちが好きなものを好きになろうとした。表面上仲良くなれても、心の中は孤独だった。


みんなよりも0.1秒くらい遅れて、のどから笑い声をしぼりだして、タイミングよく笑うことがうまくなった。でも、腹の底からおもしろいと思っていない私のお腹はとても冷たかった。大げさにのどを震わせて異様に疲れ、顔の筋肉が全力で元に戻ろうと反発していた。



そんな中、よしもとばななさんの小説と出会った。その物語の中の登場人物が、私が感じている言葉にならない感情を、全部言葉にしてくれているような気がして、読むとなんだかスッキリ満足した。この登場人物がもし自分の目の前に現れたら、きっと仲良くなれるだろうという想像が私を癒した。

そして、よしもとばななさんの小説が有名で人気だということは、物語の中の登場人物に共感している人がたくさんいるということだ。ばななさんの本を私と同じように読んでいる数え切れない人たちとも仲良くなれるような気がして、本を読んでいるときは孤独な気持ちがほんの少しゆるむような気がした。



もちろん、長い長い学校生活の中で、心の底から楽しい時期もあった。その時々で本当に仲良くなれそうな友達が現れたときもあった。

でも決められた柵の中で、その中で1番合う人を選ぶ。その中で1番楽しいことを選ぶ。やらなければならないことをなんとか楽しめるように工夫する。どんなことがあっても柵の中でなんとかやっていかなければならないんだという切迫感。そんなような窮屈な感覚を「教室」という場所に感じる気持ちはいつもぬぐえなかった。



そして大人になった私は、8月31日の今日、こうやって文章を書いている。

たぶん私はちょっとだけ、あの頃私を癒やしてくれたよしもとばななさんみたいになりたいのだ。


気持ちをわかってくれそうな人が1人でもいる心強さ。共感してくれそうな人が1人でもいるだけで、明日から教室に戻らなければならない現実が変わるわけではないのになんだか楽になる不思議。

読んでくれた人がそんな気持ちになれるような文章を書いてみたかったのかもしれない。



教室に行きたくない子ども時代を過ごした、大人になった私が伝えられること。

それは「私も教室に行きたくなかったから、その気持ち痛いほどわかるよ」ということだけなのかもしれない。

私には義務教育をなくす力なんてないし、学校に行かなくてもいいよ、なんて言う勇気はない。だから、私にできることはただそれだけなんだと思う。


学校に行かなければならないことなんて本人が1番わかっている。ただどうしても湧いてきてしまう「教室に行きたくない」という気持ちをただ誰かに受け止めてほしいだけなのだ。




幼稚園に通う息子も、はじめのうちは幼稚園を嫌がった。

「幼稚園に行きたくない」という息子に、はじめのうちはお母さんらしく「幼稚園行ったら楽しいよ」とか「○○君と遊べるよ!」とか息子の気持ちを必死に盛り上げようとしていた。グズグズしょんぼりする息子の手を無理やりひっぱって、幼稚園に通っていた。


でもある日、私も幼稚園に行きたくなかったことを思い出した。

いつものように「幼稚園行きたくない」とグズグズする息子に「母ちゃんも幼稚園行きたくなかっなぁ。でもがんばって行ってたなぁ。」と言ってみると「そうなの?じゃあ僕もがんばるね!」と息子はケロッとして言った。

息子だって、幼稚園に行くものだということはちゃんとわかっている。ただ、幼稚園に行きたくないという気持ちを受け止めてほしいだけだったのかもしれないなと思った。




教室に行きたくなかった私は、教室に行きたくない人の気持ちがわかる。

そして教室に行きたくなかった私は大人になって、今や好きな場所で好きな人たちと、自分で選んだことをして過ごしている。

大人になるって最高だ。


いつかみんな大人になる。
教室に行かなくていい日々が待っている。



今日は、8月31日の夜に絶望している幼い頃の私と同じような気持ちを味わっているすべての人の心に寄り添いたいなと思った。

そんなことしかできないけれど、同じような気持ちを味わったことのある心と心を溶け合わせること以上にできることなんて何もないような気がするのだ。


同じ気持ちを味わってきて、大人になった今でも思い出すと嫌な感じのする教室。

そんなふうに感じている大人が、ここに1人いることを伝えられたらなと思う。


そんなことしかできなくてとても無力だけどごめんね、と思う。でも、この共感のエネルギーがどうか必要な人に伝わって、ほんの少しでも明日という日が明るくなりますように。

そんな気持ちをこめて。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
もよ

大事な時間を使って、私のページにあそびにきてくださってありがとうございます。サポートうれしいです♪書きつづける励みになります(^o^)