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「お母さん!ちゃんと子供さん見てあげて!」と言われて泣いた日。

もよ

昨日、なぜか急に数年前の映像が頭に浮かんできた。


おそらく息子が2歳半くらいのときの映像だと思う。



当時は息子とべったり毎日を過ごしていた。「食べない・お昼寝しなくなった・かまってちゃん・抱っこマン・自己主張が激しい時期」の息子と1日中家にいるとしんどかったので、「公園で遊ぶ→市役所のキッズスペースでお弁当を食べる→公園で遊ぶ」というルーティーンの日が多かった。

このルーティーンを友達に話すと「え!?がんばりすぎやろ!!!」ってよくつっこまれていたけれど、私はこのルーティーンが1番楽に感じた。

外だとごはんを食べてくれることが多かったし、公園にいけば誰かがいて、お兄ちゃんや友達と遊んでくれている間はホッとした。さすがに1日中外にいたら息子も疲れて、夕方にはすんなり自転車に乗ってくれたし、体をたくさん動かしたら夜は早めに寝てくれる。

でも私も1日を終えるとヘトヘトで、息子といっしょに寝落ちてしまうことが多かった。毎朝「しまった・・・」と絶望し、また同じ1日がはじまるのだ。

ルーティーンに加えて「息子と2人のときは極力スマホを見ない」という極端な約束事を自分で勝手に守っていたので、朝スマホを見て、次にスマホを見るのは夜・・・みたいな日もあった。

つまり、私の自由時間はほとんどないに等しかった。

今思えば、がんばりすぎだと感じるけれど、そのときははじめての子育てで、ただただ一生懸命で「理想のお母さん」を目指してしまっていたんだと思う。


ある日、市役所でお昼ごはんを食べたあと、もう一度公園に向かうために自転車に乗ろうとしていた。でも息子は駐輪場の近くにあった池の方に走っていってしまって、泳ぐ魚をジッと集中して見ていた。

時間はたっぷりあるから、見たいだけ見ればいい。

そう思ったので、息子の後ろでボーっとしていた。ふと、朝友達からメールがきていたことを思い出して、今のうちに返信しようとスマホをいじりはじめた。


その数分後、私の背後から声が聞こえたのだ。


「お母さん!ちゃんと子供さん見てあげて!」


振り返ると、自転車に乗ったおばちゃんが目の前にいた。


私はとっさに「すみません」と答えた。


おばちゃんは眉間にシワを寄せたまま、それ以上何も言わずに自転車にまたがって去っていった。


私はびっくりしてしまって、
胸のドキドキがしばらく止まらなかった。


別に知らないおばちゃんにどう思われようと気にしなくていい。おばちゃんがどう思おうと、私は毎日本当にがんばっているのだから。大丈夫。なんと言われようと平気。


そう心の中で唱えて、自分で自分を落ち着かせようとしたけれど、無理だった。


私は心の中で、
おばちゃんに向かって大声で叫んだ。


「私は今たまたまほんの数分、スマホを触っていただけなんです!その数分以外は毎日子供のことだけを見ています!子供のお世話だけをして毎日生きています!これ以上、どうやって子供を見ろっていうんですか!!??えぇ!!??」


なぜか怒りが湧いてきて、
くやしくてくやしくて
涙が止まらなくなってしまった。


「今日はやっぱりお家に帰るね。ごめんね。」

泣きながら息子にそう言って、抱っこして、自転車に乗せた。非常事態だと感じたのか、息子はすんなりと自転車に乗ってくれた。自転車をこいでもこいでも、なかなか涙が止まらなかったけれど、家に着く頃にはだいぶ落ち着いていた。


落ち着いて冷静になると、
気づいてしまった。

あのおばちゃんは、きっと「私」だと。



私の中に住んでいる「厳しい厳しい私」は、「本当の私」をいつもいつもムチでたたいて従わせている。


その「厳しい厳しい私の声」と
「本当の私の声」は

注意深く耳をすまさないと
区別することができない。


そして、いつも最もらしく正しそうなことを強気で叫ぶ「厳しい厳しい私」の声に隠れて「本当の私の声」はかき消されてしまう。

だから「厳しい厳しい私」の声を「本当の私」の声だと勘違いしてしまうのだ。


でも、自分以外の誰かから責められたとき、「厳しい厳しい私」は「誰かが私の言いたいことを言ってくれたから」とばかりに、その一瞬だけ静かになる。

その瞬間、「本当の私」がひょこっと顔を出して「今だ!」とばかりに叫ぶ。


さっき私がおばちゃんに向かって心の中で叫んだことは、まぎれもなく「本当の私」の声だった。怒りとくやしさを涙で洗い流してスッキリしたあと、さらに純度の高い「本当の私」の声がきこえてくる。



見知らぬおばちゃんの言葉1つで涙があふれてしまうくらいに、私はもう限界なんだ。

毎日子供だけを見る生活が。
毎日子供のお世話だけをする生活が。

もう私はこれ以上、子供を見られない。
もうこれ以上、子供のお世話をできない。

でも仕事をやめるみたいに
やめられない。逃げられない。

それならば、1時間でいいから、
私に私の時間をください。
だれか助けてください。



そんな声がしっかりきこえてきたとき
「厳しい厳しい私」が限りなく薄く薄くなっているような気がした。


そして同時に、脳裏に焼きついた眉間にシワを寄せたあのおばあちゃんの顔が、にっこり笑顔になってウインクしているような気がした。



その日、息子にずっとテレビを見せて
その横でずっとスマホをさわっていた。

見たかった動画を見まくり
聴きたかった音楽を聴いたり
読みたかったブログを読みまくり
調べたかったことを調べまくった。


息子は自由にテレビを見れてずっとご機嫌だったし、私はほんの数時間だったけれど「私の時間」を過ごせた。

私は家が大好きなのに、1人の時間が定期的に必要な人なのに、どうしてあんなに毎日外ばかりに居たんだろう。しんどい日は、こうやって数時間でもテレビを見ながら、のんびりすればよかったのに。子供がいる前でときどきスマホをいじるくらい、きっとなんの問題もないだろうに。



テレビはできる限り見せない。
子供の前でスマホはいじらない。


そんな自分に課した約束事を今やぶったのに
私にとっても息子にとっても
何も困ったことは起こらないようだった。



私の固い固い勝手な思い込みが、
やわらかく溶けていく。

私は私にやさしくなって、
きっとそれと同じくらい
誰かにもやさしくなれるような気がした。



公園でスマホをいじっているお母さんをみて
「子供とちゃんと遊んであげればいいのに」
とイラッとすることのあった私。

それはきっと「私はスマホをいじるのをがまんしてるのに、ずるい!」という気持ちがあったからだ。


旦那さんの実家に行ったときに、息子にテレビばかり見せるお母さんに「せっかく来たのに遊んであげてよ!」とイラッとすることのあった私。

それはきっと「私だってテレビを見せてのんびりする時間がほしいのに、ずるい!」という気持ちがあったからだ。



イラッとする瞬間の裏には、きっと「自分ががまんしていること」が隠れている。

その証拠に

テレビ、別に見てもいいんじゃない?
スマホ、別に触ってもいいんじゃない?

そうやって自分に禁止していたことを許してあげると、びっくりするくらいイラッとしなくなる。



テレビやスマホだけじゃなくて

生きていく中で「○○するべき!」「○○しちゃだめ!」が私たちの周りにはたくさん溢れているけれど

それを一つ一つ、コツコツと、
「ゆるめて」いくこと。

その過程で、
自分にも人にもどんどん優しくなっていく。






「お母さん!ちゃんと子供さん見てあげて!」


そのおばちゃんの一言は強烈で、私は泣いてしまったけれど、イラッと怒ってしまったけれど、

そのおかげで
また1つ優しくなれた。


こうやって1つずつ優しくなれたらいいなと思う。



そして、私があのおばちゃんくらいの年齢になった時、同じシチュエーションに出くわしたとしたら。

自転車から降りてほんの少しの間、池の魚を見ている子供ちゃんの横で、いっしょに魚を見てあげられたらいいなと思う。

そしてスマホをいじっているお母さんに

「大変でしょう?毎日本当におつかれさま。」


そう声をかけてあげられるような
そんなおばちゃんになりたいなと思う。

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もよ

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