私がワクチンを打っていない理由。
家族3人でコロナになった。
約2週間、3人で家にこもった。
わが家のワクチン事情は、私と息子は打っていなくて、父ちゃんは2回目まで打っている、という感じだ。
息子は2日間、40度まで熱が上がったけれど、3日目にはコロッと平熱に戻り元気になった。
私はそのあと2日間、これまた40度まで熱が上がったけれど、3日目からは熱が下がり、徐々に動けるようになっていった。体感としては、人生で1回だけなったことのあるインフルエンザのしんどさと似ているなぁ、と思った。
父ちゃんは、37度の微熱がダラダラと続いて、頭痛と咳と体のダルさがなかなか抜けないようだった。ワクチンのおかげなのかはわからないけれど、なんだか発症しきっていない感じ。
家族3人で一緒にかかってしまった方が、案外気楽だ。3人の世界で、3人ともがコロナなんだから、なにも気を使わなくていい。
「え!?ワクチン打ってないの?なんで?」
ワクチンを打った友達にそう聞かれて、戸惑ったことがある。
「怖いねん・・・副作用とかさ・・・」
エヘヘと笑いながら、とっさにそう答えると、友達はちょっとホッとしたような顔をした。
「怖いんかーい!でも打たない方が怖くない?早く打った方がいいよ〜!」
そう言って、その話はそこで終わった。
そんな友達とのやりとりがあってから私は、ワクチンのことを聞かれたときには、そんな風にエヘヘと笑ってその場をやり過ごすようにしてきた。
本当はすごくよく考えた上で、「打たない」という選択をしているのに、曖昧に愛想笑いをしながら"何も考えていないフリ"をする自分が、いつも少しだけ悲しかった。
コロナのワクチンが出始めた頃、まだ完成したばかりの得体のしれないワクチンを打つことにモヤモヤした。
そのモヤモヤを見ないフリしてワクチンを打つリスクと、コロナにかかって重症化するリスク。
それらを天秤にかけたとき、特に持病なども持っていない私にとっては、前者のリスクの方があきらかに大きいように感じられた。
それに、自分の子供にワクチンを打たせるか?と考えてみると、今はまだ打たせたくないなとハッキリキッパリそう思った。自分の子供に打たせたくないものを自分には打つなんて、あまりにも自分が可愛そうじゃないか?とシンプルにそう思ったのも理由の1つだ。
でも、父ちゃんみたいに会社から打ってくださいと言われた場合、会社と戦ってまで打たないことを選ばなくていいと思う。
ほかにも、医療従事者の方や、海外に行くことのある方や、高齢者の方や、高齢者といっしょに住んでいる方や、持病を持っている方・・・
ワクチンを打つリスクよりも、ワクチンを打たないリスクの方が大きい方たちや、打たないと今いる場所で"生きづらく"なってしまう環境なら、打った方がいいと思っている。
だれかと戦ってまで"打たない"ほど危険なものではないと思うけれど、打たなくていい環境や状況ならば、打たなくていいと思う。
ワクチンを打つことに対してモヤモヤした気持ちが湧いてくるのならなおさら、その湧いてくる気持ちを大切にした方がいいような気がする。
"モヤモヤ"は、自分にとってどちらを選ぶのがベストなのかを教えてくれるバロメーターとして、私は絶大な信頼を置いている。
逆に、打つことに対してモヤモヤもしないし、抵抗も感じない人は、「打ちましょう!」という"国の方針"や"世間の流れ"に逆らわずに打った方が自然かもしれない。
ワクチンを打つか打たないかの"私にとっての基準"は、そんな曖昧な感じが今のところ1番しっくりきている。
でも、もう打った人や打つのが当たり前だと思っている人に対して「私が打たない理由」をわざわざ伝える必要もないような気がしていた。
「なんか怖くて!副作用とか・・・えへへ。」
そう言っておけば、「うんうん!確かに怖いよねぇ。わかるわかる!」みたいなやわらかい雰囲気になるから、それならお互いにとってその方がいいよね、と思っていた。
自分の気持ちとはちがうことを口に出すと、小さな自分が少しだけ悲しがっているような気はするけれど。でも、こういうウソはついても大丈夫なウソだよね、と自分を納得させたりしていた。
要は、一人一人が「打つか打たないか」を自分なりに考えて、打つと決めた人は打って、打たないと決めた人は打たない。それでいいんだと私は思っている。
だから、打たないと決めた人に「打ちなさい!」というのは違うと思うし、同じように、打つと決めた人に「打たないで!」というのも違うと思う。
正解のない選択。
どっちも正しい。
人それぞれ、正解がちがう。
自分がどっちを選ぶかだけのこと。
だから、"自分にとっての正しさ"を誰かに押し付けてはいけない。戦ってはいけない。
その部分だけは大切にしようと、常々心がけてきた。
そうやって"自分なりの考え"を持った上で、ワクチンを打たないことを選択しているのに、なぜだか自分が「非国民」のような感覚になることがあった。
国民の8割がワクチンを打ち終わっている中で、私は打っていない。その"8割"という数字の大きさに、やられてしまっていたのだろうか。
小学生のとき「多数決」で何かを決めるとき、必ず2秒くらい遅れて手をあげていた自分のことをふと思い出す。
机に顔をふせて多数決をする場合には、"手の上がる気配"をよりたくさん感じた瞬間に、スーッと手を上げた。
少数派になるくらいなら、自分の本音をひっこめたとしても多数派を選んだ方がいいと思っていたのだ。
めずらしく"少数派"を選んでいる自分に、居心地の悪さを感じているのか、なぜか「ダメなことをしている」ような感覚が消えなかった。だから、自分からワクチンの話はすることは極力避けるようにしてきたし、打っていないことをできるだけ"秘密"にしようとしてきた。
でも実際に自分がコロナになったのをきっかけに、案外自分の周りには「打っていない人」がたくさんいることに気づいた。
「そういえば梅川さんって、ワクチンは打ってるの?」
職場の店長にコロナになってしまったことを電話で伝えたときに、ついに質問されてしまった。
「打ってないんです。すみません。」
とっさに、なぜかあやまってしまった。接客業だし、打ってないと知られたら「打ってください」と言われるだろう。私はその瞬間、ワクチンを打つ覚悟を決めた。
「いやいや、うちの会社はワクチン打ってるのは1割くらいなんだよ。そうか、梅川さんも打ってないんやね。」
店長があまりにケロッと言うものだから、ちょっとびっくりした。
あれ?
そして自粛期間を終えてすぐ、行きつけの美容院に行った。私のキノコヘアは、1ヶ月に1回美容院に行かないと膨らんで大変なことになる。ほぼ同じ年で、すごく気の合う美容師さんをいつも指名しているのだけれど、1ヶ月に1回も会っていると、なんだかどんどん仲良くなっていく。
「コロナ、なっちゃいました〜!」
その美容師さんも、1ヶ月ほど前にコロナになってお休みしてした時期があったので、私は気軽にそう話した。
その話の流れで、美容師さんがふと言った。
「私、ワクチン打ってないんですよ〜!だからコロナになっちゃったときはちょっとドキドキしたけど、別にたいしたことなかったです!」
突然、そしてあまりにもサラッとそう言うのでちょっとびっくりしたけれど、なんだか嬉しかった。
「私も打ってないんですよ〜!なんか勝手に打たなきゃダメだと思っていたんですけど、今回のことで職場も1割の人しか打ってないことがわかって、ホッとしました〜。」
「あ!この美容院のスタッフたちも、ほとんど打ってないですよ〜!みんなわりと若いからかな?」
美容師さんは、サラッとそう続けた。
あれ?
父ちゃんも、実家の両親も弟夫婦も祖父母も、義理の両親も妹夫婦も、友達も、みんなみんな打ち終わっていたから錯覚していたけれど、案外打っていない人たちが周りにたくさんいることに気づいた。
それに、私みたいにちょっぴり肩身の狭い感覚を感じながら打っていないわけでもなく、サラッと「私は打ってないよ〜」と言える人たちもたくさんいることを知った。
コロナになったことをきっかけに、ワクチンを打っていない2割の人たちを身近に見つけて。
そしてその人たちが、あまりにもサッパリと軽い感じで。
「多数派にいなくてはならない」と勝手に思い込んでいた"私"が、フワッと溶けていくような気がした。
「私はワクチンを打ちます。
それは、○○だからです。」
「私はワクチンを打ちません。
それは、○○だからです。」
みんながそうやって、ただシンプルに自分の選びたい方を選んで、自分の考えをただ伝えられる世界になれば素敵だな、と思う。
戦いも、批判も、ない。
逆に、同じ考えを持っているからって、必要以上に群れたり固まったりしない。
一人一人が、ただ自由に何かを選べる世界。
もしかしたら、すでにそんな世界で生きている人たちがたくさんいるのかもしれない。
自分の考えを伝える勇気と
相手の考えをただ受け入れる勇気を
持つことができたなら、
そんな世界に、エイッとワープできたりするのかもしれない。
どちらが正しい、正しくない、ではなくて
どちらが多数派、少数派、でもなくて、
自分なりに考えて、
自分にぴったりな選択をして、
その選択を胸を張って周りの人に伝えられる自分でいられたらいいな、と思う。
自分がそうありたいからこそ、だれかの選択に対しても、批判も肯定もせずに「そうなんや〜!そう思ってるんやね!それもいいね!」とただマルッと受け止めて尊重することのできる私でありたいな、とも思う。
ワクチンに限らず、
私の日常は毎日毎日"選択"の連続だ。
何を食べようか。
何を着ようか。
何をして過ごそうか。
何をしてあそぼうか。
だれと過ごしたいか。
どんな仕事をしたいか。
このお金を何に使おうか。
どんな音楽を聞こうか。
どの本を読もうか。
どのYou Tubeチャンネルを見ようか。
何時に寝ようか。
「普通はこうするだろう」
「こうするのが無難だろう」
「みんなはこうしてるから」
を一度脇に置いて
その一つ一つに対して、
「私はこうしたい!」
「私はこれを選びたい!」
をもっともっと大切にできたとしたら。
どんなに楽しい毎日になるだろう。
どんなに自由な気持ちになれるだろう。
制限なく無限にひろがっていくその優しい優しい世界の空気は、どんなにおいしいだろう。
コロナやワクチンのことは、今までnoteに極力書かないようにしてきたけれど、
自分がコロナになってみて
改めていろいろ感じることがあって
書いてみようかな、と思ったので書いてみた次第だ。
風邪をひいて寝込んだあと、
まるで自分がリニューアルオープンしたみたいに感じるあの感覚は、嫌いじゃない。
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