その時々に自分にとって必要な本とは 学び方#1

どんな本と向き合うべきか、というのが、本記事の主題です。

巷では、毎日のように新刊が発売され、インフルエンサーたちがこぞって本を宣伝します。

他人に勧められた本が、そのときに自分が読む本として適切とは限りません。人それぞれ知的な背景が全く違うので、誰かにとって適切な本が、他の誰かにとって適切とは限らないのです。

また、やもすると、読むべき本が無限に増え、自らの可処分時間の短さを(あるいはこの世に生をとどめておける時間の短さを)嘆くことになりかねません。

今回、念頭に置いているのは、学びたい対象が決まった後の段階です。
学びたい対象の選び方については、またどこかで書きたいと思っています。

学びたい対象が絞られたとしても、本の冊数が直ちに絞られるわけではありません。

そんなときにおすすめなのが、
「その本との『対話』がはずむのか」
という視点です。

古本に残された痕跡を頼りに、古本と「雑談」するという内容のブログを以前に書きました。

これは、半ば冗談めいたものであり、そこでしていたのはあくまでも「雑談」です。

「対話」というのは、対話の当事者がある程度同じ知的レベルでないと、盛り上がりません。

その本が、その時の自分にとってあまりに難解で、「対話」のための質問・問いかけ、本の記述を踏まえた思考ができないとすれば、その本との「対話」ははずみません。

一方で、その本が、その時の自分にとって簡単すぎても、知っていることの確認にしかならず、「対話」はあまりはずみません(著者との対話ははずむのでしょうが、ここでの「対話」は読者が内省的に行うものであるため、その本が必要十分な情報量を備えていることが必要となります。)。

「対話」の中で、建設的な疑問(問い)が生まれ、その疑問に直ちに答えがでないという要素もあると理想的です。

不確実性が高まり、正解のない社会において、本を読む意味は、本の中に正解を探すことではなく、本との「対話」を通じて、その時の自分に必要な問いを立てることにあると思うからです。

なお、著名な書き手の言葉に正解を求めたくなるのが世の常ですが、以下のブログで記載したとおり、「思考の武器となるのは、何度も何度も、自らの中で研ぎ続けた知識」ではないかと思います(著名な文献からの安易な引用に対する、ショウペンハウエルの痛烈な批判についても以下のブログをご参照)。


また、「対話」の中で出てきた問いに対し、直ちに答えがでるのであれば、その問いは、もはや自分にとって必要な問いではなくなっています(問いは乗り越えられるために存在し、乗り越えられた問いはその役目を果たしたといえるからです。)。

以上をまとめると、その時々に自分にとって読むべき本とは、

・その本との対話がはずむ本
・対話の中で建設的な問い(直ちに答えがでないもの)が生まれるような本

と言えるのではないかと思います。


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