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ショウペンハウエル『読書について』から考える学びに対する姿勢 醸造#2

ショウペンハウエル『読書について 他二篇』(岩波文庫)は、情報社会を生きる我々にとって、古くて新しい問題提起、思索や読書に関する鋭すぎる意見表明を含んでいる。

本書には資格試験を含め、学ぶこと一般にも示唆的な箇所が多いため、その幾つかを紹介する(ページ数は、手元にある2019年第80刷発行のものである。)。

とはいえ、本書の記載を引用するにはいささかの抵抗がある。

なぜなら、本書は文献の引用に対してすら、以下のとおり、鋭利な指摘を行うからである。

「世間普通の人たちはむずかしい問題の解決にあたって、熱意と性急のあまり権威のある言葉を引用したがる。」(19頁)

ショウペンハウエルの批判をかわすために必要なのは、以下で引用する彼の言葉を盲目的に受け止めるのではなく、批判的に検証するという姿勢だろう。
その姿勢を持ちつつ、慎重に彼の言葉を引用することとしたい。

まずは「思索」の冒頭から。知識に関して、

「いかに多量かき集めても、自分で考えぬいた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。」(5頁)

情報を収集する、書籍を買う、新しい講座を申し込む…といった行為は、図らずも一定の満足感を満たすものだ。

論文をかき集め、権威の文献を買ったところで、思考は一ミリも前進していないのに、何者かになったような気がしてしまう。

ショウペンハウエルに言わせれば、「多くのばあい、我々は書物の購入と、その内容の獲得とを混同している」(137頁)のだ。

思考の武器となるのは、何度も何度も、自らの中で研ぎ続けた知識だけである。

「思索」における次の一節は、学び続ける者にとって示唆的だ。

「自ら思索する者はまず自説を立て、後に初めてそれを保証する他人の権威ある説を学び、自説の強化に役立てるにすぎない。ところが書籍哲学者は他人の権威ある説から出発し、他人の諸説を本の中から読み拾って一つの体系をつくる。」(10頁)

法学でいえば、ある論点や問題について考えるときに、業界で権威のある○○先生の本にはこう書いてあった、○○説によると…といった引用で満足してしまうというのは誰しもが経験していることだと思う。

そういった姿勢はここで言う「書籍哲学者」ということになろう。

趣味での学びであれば、「書籍哲学者」になるという選択肢もあるだろう。しかしながら、「書籍哲学者」は実務家足り得ない。

ショウペンハウエル曰く「学者とは書物を読破した人、思想家、天才とは人類の蒙をひらき、その前進を促す者で、世界という書物を直接読破した人のこと」であり(7頁)、実務家がどちらでなければいけないかは一目瞭然だ。

「読書について」の次の一節は、自らの学びの姿勢を自戒するきっかけになる。

「ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。」
「精神的食物も、とりすぎればやはり、過剰による精神の窒息死を招きかねない。」(128頁)

テキストを長時間眺めることをもって「勉強」したことにしたことはないだろうか。

あるいは、身の丈に合わない難解な本や論文を読むことで何となく「勉強」した気になったことはないだろうか。

「熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは真に読者のものとなる。食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。」(129頁)

消化不良を起こすような勉強をしていないかという視点は、精神的健康を保って学びを進めるために必要なことだ。

具体的な方法論に落とし込むであれば、まずは、薄い教科書を丁寧に自らの思考の血肉にし、その上で、個別の論点に枝葉を伸ばしていく、というやり方が望まれるということになろう。

日々洪水のように押し寄せる情報をかき分けて生きる現代人にとって示唆的な言葉を引用することで本エントリーを締めくくることとする。

「良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。」(134頁)

良書と共に、良き(知的な)旅を!

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