はじめに
映画の見方は人それぞれと思うが、私は昔からどちらかと言えば「物語体験」よりは「映像体験」に魅かれるタイプだ。
今春、著名な映画批評家でもある蓮實重彦氏が『ショットとは何か』という著作を上梓された。それを機に、氏の考える「ショット」についてより深く知りたいと考えた。
そこで、蓮實氏の著作を相当量読んでいる知人に、「ショット」についての理解が深まりそうなものを何冊か推薦してもらい、かつ、文芸誌の最近の関連記事とも併せて、氏が「ショット」について語っている言葉を抜き出してみることにした。
その意味でこの記事は、私の個人的で長大な備忘録であり、「ショット」についての不完全な「蓮實語録」でもある。
――映画における見事なショットとはどのようなものなのか。それについての理解が深まれば、映画を観る(見る)幅や楽しみが広がるのではないか。――そのように考えておられる方に、この私的な備忘録めいた記事がお役に立つようならば嬉しく思う。
(以降の本文では敬称を略する)
1.「ショット」の辞書的な定義
本題に入る前に、映画用語としての「ショット」の辞書的な定義をいくつかの書籍から引いておく。乱暴に言えば「ショット」とは、キャメラマンが「キャメラを回し始めてから止めるまでの映像」ということになるのだが、専門家によれば以下のように定義されている。
続いて、前掲の『ショットとは何か』では、編者によってひとまずこのような定義がなされる。
ただし、上記の「言語における単語のような役割」との定義は、蓮實によって、以下のように補足されてもいる。辞書的な意味を精確に表現しようとするだけでも、まあまあややこしいということが分かる。
2.「見事なショット」とは何か
論の前提
本題の最初に、蓮實の著作における「ショット」の用法について断っておくと、この語は、一般的な用語としての「ショット」として用いられる場合と、「優れたショット」という意味で用いられる場合がある。
例えば、以下の引用のような、賛辞として用いられる「ショットが撮れる監督」という用法は、「“優れたショット“が撮れる監督」という意味である。文脈に応じて読み取っていただきたい。
(*引用文における強調(太字)は、特に断りのない場合は引用者によるもの。以下同様)
次に、もう一つ事前に断っておくことは、本稿は「見事なショットを撮る理論」を探るものではないということである。蓮實自身が、以下のように「ショットは理論的には語り得ない」と記しており、「見事なショット」とは、演繹的にも帰納的にも、理論として一般化できるものではないことが前提となる。
では、ここから本論に入る。
蓮實自身の手による、もしくは関連するテキストにおける「ショット」に関する言説を参照し、私なりに整理していく。私自身による解釈は可能な限り避けたいと思っているが、必要に応じて多少の補足を行うことをお許し願いたい。
まずは、語り口が具体的で比較的分かり易い「入門編」、続いて抽象度の高い「上級編」と類別し、この順番でみていく。
「見事なショット」とは①~入門編
(1)ショットは、構図、光線、被写体との距離によって規定される
これらは、ショットを規定する外形的な要素である。まずは、構図や光線、被写体との距離が、そのショットが優れているか否かについての、ベーシックで決定的な要素となる。(おそらく「光線」には色調や色彩も含まれてよいように思う)
(2)ショットは、「時間との闘い」である
蓮實は「映画90分説」を唱えるように、映画作品の「時間(=長さ)」を重視する。映画作家には、「時間と格闘」し、撮るべき映像をどう適切な長さのショットに収めるか、といった態度を求めているように思われる。
かみ砕いていえば、「見事なショットには、長すぎず短すぎずの最適な長さがあるはずであり、それを模索し格闘するのが映画作家だ」と考えているのだと私は解釈した。
(3)見事なショットとは、「審美的に凝った画面」や「風景画のような画面」のことではない
蓮實の言う「見事なショット」とは、「凝った構図」や「美しい画像」という意味では全くない。デイヴィッド・W・グリフィス監督についての言及にもあるように、ある意味で「ごく普通の構図のショット」こそが至上であると考えている節もある。
上記は、ジャン・ルノワール監督による、パリを舞台とする映画『素晴らしき放浪者』等に言及する中での一節だが、この一節からは「風景画や絵葉書のような美しい画面」であることも、「見事なショット」であることとは無関係であると読み取れる。
(4)ショットは、「固有の存在である被写体」と関わっている
これらは、映画監督である青山真治および三宅唱と蓮實との対談中での発言だが、実作者らしい興味深い発言である。
青山は「優れたショットと俳優の生かし方はつながっている」、三宅は「かつて、俳優の存在を無視してショットを考えていた」と反省の弁を述べ、「優れたショットとは固有の存在である被写体との関係性から成る」と語っている。
かみ砕いていえば、「被写体が何であるか、誰であるかによって、最適なショット(例えば構図や照明など)は常に異なる」ということだと私は解釈した。
(5)ショットは、「運動」が重要な要素である
「運動」あるいは「運動感覚」という言葉は、蓮實がショットについて語る際に重用される。一義的にはショットにおける「被写体の動き」のことと理解して良いと思われる。ただし、一筋縄では言い切れぬ部分もあるようなので、ここでは詳述せず、次章の「上級編」にまわすこととする。
なお、上の引用文での「運動」について補足してくと、それぞれ「バスター・キートンの身体の動き」、「走行中のバスの動きによる、乗客たちのゆるやかな上下の揺れ」を指している。
(6)ショットは、「画面の連鎖」の中で評価される
上記は、先日惜しくも亡くなった青山真治監督の『EURIKA ユリイカ』についての言及である。
ショットは、必ずしもそのショット単体で見て優れているか否かを判断されるものではなく、前後のあるいは一連のショットとのつながり(連鎖)の中で評価されるべきという観点が述べられている。
かみ砕いていえば、「いかに優れたショットであろうと、それだけを切り取って見せられてもその本来の素晴らしさは充分には伝わらず、画面の連鎖の中で見てこそ、その見事さは伝わる」ということだと私は解釈した。
(7)見事なショットには「色気・生なましさ・存在そのものの艶」がある
ここで語られる「色気」や「生なましさ」という概念は、蓮實の言う「見事なショット」の重要な要素であるように思われる。蓮實は「色気」という言葉を好んで使うが、「生なましさ」「艶」も、おおよそ近い概念だろう。この語についても、次章「上級編」で詳述するが、ひとまずここでは「(被写体の)存在そのものの気配」といった説明に留めておく。(敢えて俗っぽく言えば「存在感」や「リアリティ」という語の意味に近いように思えるが、こうした平板な用語に変換することは、おそらく蓮實の不興を買うように思う)
(8)ショットの「色気」と「運動」は深く関係している
蓮實の言う「色気」と「運動」は深く関係している。上の引用文ではジョン・フォード監督による「馬」の映像に言及しているが、「色気」とは、(一例としてだが)「運動する動物の魅力のようなもの」であり、「人物がフッと手を上げた瞬間の動き(の魅力)」だということになる。
(9)ショットは「物語」を超える、或いは「物語」に対する抵抗である
「映画に物語は不可欠です」と蓮實も言うように、私たちが映画を観る(見る)際は、まずは無意識の裡にも「物語を捉えよう」としている。俗に言えば「筋を追う」ということだ。
それを踏まえて「ショットは物語を超える/物語に抵抗する」とはどういうことか。それをかみ砕いていえば、「筋を追っている観客に、優れたショットは、ハッと目を見開かせるような驚き(動揺)を与える」ということだと私は解釈した。
もう少し詳しく言えば、「漫然と筋を追っていた観客の目に突然飛び込んできた画面が、筋を追うことを一瞬忘れさせ、物語とは別の次元で感情を揺り動かされる」といったことがあり、これが「見事なショット」のもたらす映画体験だということになろう。
なお、上記引用文にて用いられる「可視的なイメージ」とは「画面(=ショット)」のことであり、「不可視の説話論的な構造*」とはひとまず「物語」のことだと言っておく。「これらの双方に同時に注意を向けることが映画を見るうえで重要だ」ということが、蓮實の主張になる。
(*「説話論的な構造」については本稿付録にて補足する)
(10)「ショットが撮れる監督」とは、絶対的な正解などないにもかかわらず、絶対的な正解があるかのように、ショットを撮れる監督
この項目は特に補足は不要なのだが、屋上屋を重ねることになると知りつつ付け加えるならば、蓮實は「ショットの絶対的な正解など理論的には導き出せないが、ショットが撮れる監督とは、そのショットが、あたかも絶対の正解であると確信して撮ってみせる監督だ」と言っている。優れて美しいレトリックだと納得した次第である。
また、引用文中の「演出の映画-撮影の映画」という対称性による類別も、非常に興味深い。
(11)「ショットが撮れない監督」とは、「見ることの悦び」を感じさせてくれない監督
蓮實の映画批評の辛辣さは読者にはよく知られているが、ここでは「ショットが撮れる監督」を理解するための補助線として、「ショットが撮れない監督」についての言及をいくつか提示した。蓮實による「ショットが撮れない監督」に見られがちな傾向としては(一例だが)
・細切れのカット割りと、セリフのみによる(物語や心情の)説明
・運動感覚と時間への意識の低さ
・構図とアングル、被写体との距離とその動き、それら全体への感性の欠落
・凡庸な画面連鎖
などといったことがあげられる。
「見事なショット」とは②~上級編
ここからは上級編として、より抽象度の高い、言いかえれば晦渋な、ある意味で蓮實らしさ全開の文章を挙げていく。当然ながら、私自身がこれらの蓮實の文章を正しく理解できているとは全く思っていない。
ここからは原則として、解釈や補足を放棄し、いわば蓮實の言説を「放り投げる」ことに留めることとする。
(12)見事なショットは、「厳密でありながら穏やか」「雄弁でありながら寡黙」
蓮實における「ショット」の核心に近いであろう文章をいくつか挙げた。『ショットとは何か』においても終章近くに、結論めいたこととして記されているのは「穏やかな厳密さ、あるいは、厳密な穏やかさ」や「寡黙な雄弁さ、あるいは、雄弁なる寡黙さ」であり、他の著作においても「持続と断絶」「生成と消滅」といった、幾分か逆接風味というか撞着語法的なというか弁証法的なというか、ともかくもレトリカルな表現が多い。
さて、本章の冒頭に「解釈も補足もしない」と述べた舌の根も乾かぬうちではあるものの、この項目については少しだけ私の解釈を書き足すことをお許しいただきたい。
まず、「ショットは、その秒数や前後のショットとの繋がりといった厳密に測定できる部分と、人間の曖昧な記憶に頼るしかない穏やかな漠たる全体像の二面性を有する対象として捉えるべきもの」だということ。そして、「見事なショットは、過多な説明や徒な技巧を弄さない寡黙さによって、多くのことを雄弁に語っている」ということ。これらが、ひとまず現時点での私の解釈になる。
(最初に挙げた蓮實の手による晦渋な文章を理解する一助として、上記最後に挙げた『文學界(2022年9月号)』座談会記事中の阿部和重と三宅唱の発言はとても参考になった)
(13)「色気」とは、「まぎれもなくそこにいる」ことが見える瞬間
蓮實はインタビュアーの「色気の定義は?」との質問に、上記のように答えている。私の感覚で、強いてこの中から最も核心に近いと思える一節を選ぶならば「ある人が、性別、国籍、年齢を超えて、そこにいるということが見えてしまう瞬間」になる。
なお、前章「基本編」でも見たように、「色気」をまとう被写体は人間には限られず、馬などの動物も含まれる。
(14)「運動」は、「動きをとめること」でも表現される
蓮實のいう「運動」について、前章「入門編」ではひとまず「被写体の動き」と定義したが、これは正確に言えば「動きをとめること」も含まれる。引用文で具体的かつ象徴的な例として挙げられているのが、小津安二郎の映画における「記念撮影」の場面である。画面に映し出される人物全員が「ぴたりと動かなくなる」場面。蓮實はこれもまた映画における「運動」だと定義づけている。かつ、「記念撮影」の場面は小津の複数の映画中に存在し、それらがいずれも共通して「物語を動かす契機」になっているとしている。
(*引用文中の「主題論的な統一」については本稿付録にて補足する)
(15)「運動」は「心」と対になる概念でもある
蓮實の映画批評における「運動」という用語は、「心」あるいは「感情表現」といった用語の対概念として用いられることがある。蓮實の琴線に触れるショットは、その行動の原理が「心」にあるものではなく、原理が「運動」にあるものだとのことだ。
(16)映画は「活劇」であるべきで、それは「ショット」の問題である
蓮實の映画批評においては「活劇」という言葉も時折重要な用語として現れる。これは上記引用文にあるように、一般的な「アクション映画」との意味ではなく、「ショットの問題」すなわち、「あらゆる映画は、見事なショットによって、活劇になる(活劇であるべきだ)」と主張されている。
上記引用文からは、映画の「活劇要素」とは、「ショットが変るときに、どきりとさせられること」であると読み取れる。
おわりに
ここまで綴ってきてはみたものの、蓮實の言う「ショット」について、私自身が十全に理解したとは、とてもではないが言い得ない。
それでも、私自身がこれまでに映画を観てきた中で、なぜ、ある「ショット」を見たことが、劇場にいたその時の私の鮮烈な映像体験となりえたのか、その理由について、おぼろげには分かってきた気がしている。
私はこれからも、映画を観ること、ショットを見ることを通して、「きまって人間の視線を逃れ、それを無効にする『映画』と呼ばれるあの不在なるものの輝きに、いつまでも魅せられていたい*」と思う。
(*『ショットとは何か』 P.202より)
(了)
付録
①:関連用語についての補足
蓮實の映画批評において特徴的(あるいは特権的)に用いられる、「説話論的な持続/構造」「主題論的な体系」の二つの用語について、参照できる文章を以下に引用する。私自身は、これらを明快かつ正確に解説する能力は持っていない。深く正確に理解されたい方は、ご自身で蓮實の著作にあたるなどして考察願いたい。
(1)説話論的な持続/説話論的な構造
以下は、上記についての解説や解釈ではなく、個人的な雑感である。
おそらく「説話」とは「ナラティブ」、説話論とは「ナラトロジー」の訳語なのではないかと想像するが、確認したわけではない。「説話論的な持続」とは、「映画が語っていることの継続性(その続いている時間)」、「説話論的な構造」とは、その「映画が語っていることに内在する構造(表面的なストーリー自体ではない)」といったことだろうと推察しているが、まったくの的外れかもしれない。
(2)主題論的な体系
以下も、上記についての個人的な雑感である。
「主題論的」とは「テマティック(thematic)」の訳語だと蓮實自身は語っている(以下リンク記事参照)。この「テマティック」の語幹は「テーマ(theme)」だが、日本語におけるいわゆる「テーマ=主題」とは全く意味が異なる。蓮實の用いる「主題」の意味は、「ある映画作家が、複数の作品において、繰り返し用いる映像の題材(映される細部、登場人物の行動や仕草、特定の場面など)」のことだと言って、概ね間違いではないと思われる。
本記事の引用文中で示された例としては「小津映画における記念写真撮影」、ジョン・フォード監督の諸作品における「ものを投げること」「囚われること」「マッチで火を付けること」も蓮實の言う「主題」となる。
蓮實はまた、「主題」について「道徳的価値判断」(これは俗にいう「作者のメッセージ」に近い意味だろう)とも関連しないと語っている。
なお、蓮實の主題論(テマティズム)については、佐々木敦による以下のような解説がある。
②:蓮實の語る「ショット」の事例
ここでは、蓮實自身による「見事なショット」の事例への言及を2つ挙げる。なお、この2事例の選択は、あくまで私個人の好みにすぎないことを断っておく。
●『秋刀魚の味』(小津安二郎)の事例
●『サッド ヴァケイション』(青山真治)の事例
③:廣瀬純『ショットとは何か』論からの抜粋
以下は、『群像』2022年7月号に掲載された、廣瀬純による批評の一部である。蓮實の『ショットとは何か』について論じたもので、蓮實の文言を引用してのサマリーに類した部分である。(引用文中の数字は『ショットとは何か』における頁数)
④:北村匡平『24フレームの映画学』中の「蓮實の表層批評・主題論的分析」の要約
⑤:『フィルム・スタディーズ事典』によるいくつかの用語説明
⑥:『映画史を学ぶクリティカル・ワーズ』によるいくつかの用語説明
⑦:『映画理論講義』による「ショット」の概念