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映画における「見事なショット」とは何か? ~ 蓮實重彦の言葉から

はじめに

映画の見方は人それぞれと思うが、私は昔からどちらかと言えば「物語体験」よりは「映像体験」に魅かれるタイプだ。
今春、著名な映画批評家でもある蓮實重彦氏が『ショットとは何か』という著作を上梓された。それを機に、氏の考える「ショット」についてより深く知りたいと考えた。
そこで、蓮實氏の著作を相当量読んでいる知人に、「ショット」についての理解が深まりそうなものを何冊か推薦してもらい、かつ、文芸誌の最近の関連記事とも併せて、氏が「ショット」について語っている言葉を抜き出してみることにした。
その意味でこの記事は、私の個人的で長大な備忘録であり、「ショット」についての不完全な「蓮實語録」でもある。

――映画における見事なショットとはどのようなものなのか。それについての理解が深まれば、映画を観る(見る)幅や楽しみが広がるのではないか。――そのように考えておられる方に、この私的な備忘録めいた記事がお役に立つようならば嬉しく思う。
(以降の本文では敬称を略する)


1.「ショット」の辞書的な定義

本題に入る前に、映画用語としての「ショット」の辞書的な定義をいくつかの書籍から引いておく。乱暴に言えば「ショット」とは、キャメラマンが「キャメラを回し始めてから止めるまでの映像」ということになるのだが、専門家によれば以下のように定義されている。

撮影カメラが写した一続きの記録。

 『Film Analysis 映画分析入門』マイケル・ライアン+メリッサ・レノス(フィルムアート社)P.20

カメラを回しているあいだに連続的に撮影されたフィルムまたはその画像。日本では慣用的にカットと呼ばれることも多いが、英語ではショットが使われる。

『映画映像史』出口丈人(小学館)巻末用語解説 P.34

(略)始まりがあって終りがある。どこで始めて、どこで終わるのかを決める。こうして産み落とされた映像を、ここでは「ショット」と名付けようと思います。つまりショットとは、なによりもまず被写体の発見であって、その動きの発見です。

『映画術』塩田明彦(イースト・プレス)P.120-121

続いて、前掲の『ショットとは何か』では、編者によってひとまずこのような定義がなされる。

「単一のキャメラによって連続撮影された、切れ目のない一続きの画面」
「視覚でとらえることのできる映画の最小単位で、言語における単語のような役割を担う」

『ショットとは何か』蓮實重彦(講談社) P.6

ただし、上記の「言語における単語のような役割」との定義は、蓮實によって、以下のように補足されてもいる。辞書的な意味を精確に表現しようとするだけでも、まあまあややこしいということが分かる。

映画におけるショットをシークエンスの「単位」と呼ぶことはあくまで便宜的なもの、ごく恣意的なものにすぎません。それは、言語における「文」の「単位」である単語とは、構造的にはまったく異なるものだからです。

『ショットとは何か』蓮實重彦(講談社) P.164

映画には、言語における意味での「単位」にあたるものが存在していないからです。

『ショットとは何か』蓮實重彦(講談社) P.166


2.「見事なショット」とは何か

  論の前提

本題の最初に、蓮實の著作における「ショット」の用法について断っておくと、この語は、一般的な用語としての「ショット」として用いられる場合と、「優れたショット」という意味で用いられる場合がある。
例えば、以下の引用のような、賛辞として用いられる「ショットが撮れる監督」という用法は、「“優れたショット“が撮れる監督」という意味である。文脈に応じて読み取っていただきたい。

だから、正解はないにもかかわらず、見ている作品のショットはすべて完璧に思えるのです。こうした作品を撮る映画作家たちを、わたくしは、「ショットが撮れる監督」と呼んで*います。

『言葉はどこからやってくるのか』蓮實重彦(青土社) P.326

(*引用文における強調(太字)は、特に断りのない場合は引用者によるもの。以下同様)

次に、もう一つ事前に断っておくことは、本稿は「見事なショットを撮る理論」を探るものではないということである。蓮實自身が、以下のように「ショットは理論的には語り得ない」と記しており、「見事なショット」とは、演繹的にも帰納的にも、理論として一般化できるものではないことが前提となる。

そこで述べられていることは、「ショット」とはあくまで実践的な問題であり、決して理論的に語られるものではないということなのです。被写体に向けるべきキャメラの位置に正解はないにもかかわらず、優れた監督は正解があるかのように撮ってみせるという点を、実例を挙げながら考察しているのです。

WEBサイト『考える人』(蓮實重彦ロングインタビュー 第4回)https://kangaeruhito.jp/interview/14526

もっとも、「ショット」については、いつか語らねばならぬと考えていました。しかし、それを理論的な言説に仕上げることだけはしまいとも思っていた。それは、ここに読まれた『ショットとは何か』の後半部にも記したとおり、理論がいまだ映画に追いついていないと確信したからです。

『ショットとは何か』蓮實重彦(講談社) P.281

しかも映画は、被写体そのものの性格によっても、また題材や物語という点からしても、援用された手段*を絶対的に正当化する理由をいささかも持ってはいない
(*引用者注:ここでは、移動撮影、パン、ティルト、固定ショットの四つの撮影手法のこと)

『監督 小津安二郎』蓮實重彦(ちくま学芸文庫) P.173


では、ここから本論に入る。
蓮實自身の手による、もしくは関連するテキストにおける「ショット」に関する言説を参照し、私なりに整理していく。私自身による解釈は可能な限り避けたいと思っているが、必要に応じて多少の補足を行うことをお許し願いたい。
まずは、語り口が具体的で比較的分かり易い「入門編」、続いて抽象度の高い「上級編」と類別し、この順番でみていく。


「見事なショット」とは①~入門編


(1)ショットは、構図、光線、被写体との距離によって規定される

ショットは、構図光線だけではなく、被写体との距離というものも決定的な要素です。

『見るレッスン』蓮實重彥(光文社新書) P.17

これらは、ショットを規定する外形的な要素である。まずは、構図や光線、被写体との距離が、そのショットが優れているか否かについての、ベーシックで決定的な要素となる。(おそらく「光線」には色調や色彩も含まれてよいように思う)


(2)ショットは、「時間との闘い」である

映画とは時間との闘いです。(略)引き寄せよう引き寄せようとして、結局時間は自分のものにならない。しかし、そこであきらめるのではなく、どうショットに収めようかと格闘する。

『見るレッスン』蓮實重彥(光文社新書) P.58

蓮實は「映画90分説」を唱えるように、映画作品の「時間(=長さ)」を重視する。映画作家には、「時間と格闘」し、撮るべき映像をどう適切な長さのショットに収めるか、といった態度を求めているように思われる。
かみ砕いていえば、「見事なショットには、長すぎず短すぎずの最適な長さがあるはずであり、それを模索し格闘するのが映画作家だ」と考えているのだと私は解釈した。


(3)見事なショットとは、「審美的に凝った画面」や「風景画のような画面」のことではない

この場合、ショットが撮れるとは、審美的に凝った画面を撮るということではまったくなく、それぞれの場合に応じて、それしかないという決定的な構図のショットが撮れるということなのです。

『ショットとは何か』蓮實重彦(講談社) P.108

グリフィスがクローズアップを巧みに画面にとりこんでいたのは確かな事実だとしても、「撮る」 監督としての彼の真の偉大さは、ごく普通のショットをごく普通に撮って見せることにあったのだとわたくしは思っています。(略) グリフィスを「クローズ・アップ」や「モンタージュ*」といった視点のみから語っていては、ショットにこめられた肝心な強度といったものを、見落としてしまいかねません。
*付録に用語説明あり

『ショットとは何か』蓮實重彦(講談社) P.195-196

蓮實 撮れるぞ、というのは、あらゆる画面がショットとして成立しているということ。ただきれいな構図に何かをおさめているということではなく、一連の流れの中にショットが成立している

『映画長話』蓮實重彦×黒沢清×青山真治(リトルモア) P.222

蓮實の言う「見事なショット」とは、「凝った構図」や「美しい画像」という意味では全くない。デイヴィッド・W・グリフィス監督についての言及にもあるように、ある意味で「ごく普通の構図のショット」こそが至上であると考えている節もある。


パリとは風景ではない。そして映画作家は風景画家であってはならない

『映像の詩学』蓮實重彦(ちくま学芸文庫)P.126

上記は、ジャン・ルノワール監督による、パリを舞台とする映画『素晴らしき放浪者』等に言及する中での一節だが、この一節からは「風景画や絵葉書のような美しい画面」であることも、「見事なショット」であることとは無関係であると読み取れる。


(4)ショットは、「固有の存在である被写体」と関わっている

青山 (略)ショットの問題と俳優への信用、というか俳優の生かし方という部分は、つながるような気がしています

『映画長話』蓮實重彦×黒沢清×青山真治(リトルモア) P.43

三宅 かつての僕が、ズバッ! という厳密そうな側面だけでショットを捉えてしまっていたのは、俳優たちの存在がまるで念頭になかったからではないか。(略)単に、被写体の存在を無視したままショットについて考えようとしていたのではないか

「三宅さん、ショットとはいったい何なんでしょうか?」三宅唱×蓮實重彦(『群像』2022年8月号 P.196)

三宅 (略)どうやっても一括りには語りえないそれぞれ固有の存在である被写体たちがショットにかかわっているらしいことがようやく意識にのぼり、となると、ショットもまた、言葉で理論化したり、一般化することはできないものだというのは確かにそうだと、自分なりに納得しました。

「三宅さん、ショットとはいったい何なんでしょうか?」三宅唱×蓮實重彦(『群像』2022年8月号)P.196

これらは、映画監督である青山真治および三宅唱と蓮實との対談中での発言だが、実作者らしい興味深い発言である。
青山は「優れたショットと俳優の生かし方はつながっている」、三宅は「かつて、俳優の存在を無視してショットを考えていた」と反省の弁を述べ、「優れたショットとは固有の存在である被写体との関係性から成る」と語っている。
かみ砕いていえば、「被写体が何であるか、誰であるかによって、最適なショット(例えば構図や照明など)は常に異なる」ということだと私は解釈した。

(5)ョットは、「運動」が重要な要素である

キートンのしかるべき作品は、サイレント期を代表するのみならず身体そのものの視覚的な存在とその思いがけぬ運動形態とがスクリーン上での奇跡的な遭遇を演じているという点で、映画史的に重要な作品なのです。

『ショットとは何か』蓮實重彦(講談社) P.116

間違いのない事実は、ここでわれわれが一体化したいと希求する対象が、人物やその心理ではなく、この簡潔な画面の連鎖*がつくりあげる運動そのものであるということだ。
(*引用者注:映画『東京物語』における「遊覧バスのゆるやかな前進運動」のシークエンス)

『監督 小津安二郎』蓮實重彦(ちくま学芸文庫) P.193

「運動」あるいは「運動感覚」という言葉は、蓮實がショットについて語る際に重用される。一義的にはショットにおける「被写体の動き」のことと理解して良いと思われる。ただし、一筋縄では言い切れぬ部分もあるようなので、ここでは詳述せず、次章の「上級編」にまわすこととする。
なお、上の引用文での「運動」について補足してくと、それぞれ「バスター・キートンの身体の動き」、「走行中のバスの動きによる、乗客たちのゆるやかな上下の揺れ」を指している。


(6)ショットは、「画面の連鎖」の中で評価される

(略)傑作と呼ばれるにふさわしい『EUREKA ユリイカ』におけるショットの連鎖は、その上映時間の長さにもかかわらず、どれもこれもほぼ完璧だった。そこでは、幻視の光景さえが見事な画面におさまり、構図の乱れなど一つとしてなかった。ショットの完璧さとは、もちろん、構図の揺るぎなさにつきているわけではない。画面そのものの持続と他の画面との連鎖がこれしかないという的確な呼吸で推移しているのを目にするとき、人は思わず完璧の一語をつぶやかざるをえない

『映画崩壊前夜』蓮實重彦(青土社) P.81

上記は、先日惜しくも亡くなった青山真治監督の『EURIKA ユリイカ』についての言及である。
ショットは、必ずしもそのショット単体で見て優れているか否かを判断されるものではなく、前後のあるいは一連のショットとのつながり(連鎖)の中で評価されるべきという観点が述べられている。
かみ砕いていえば、「いかに優れたショットであろうと、それだけを切り取って見せられてもその本来の素晴らしさは充分には伝わらず、画面の連鎖の中で見てこそ、その見事さは伝わる」ということだと私は解釈した。


(7)見事なショットには「色気・生なましさ・存在そのものの艶」がある

その面白さの一つは、「細部が見せる一種の色気」というべきものだと思います。色気といってしまうとふとセクシャルなものを感じさせますが、そうではなく、存在しているものの影が、描かれているもの以上の何かを見ているものに語り掛けてくるということが重要なのです。

『見るレッスン』蓮實重彥(光文社新書) P.184-185

あらゆるものには、いわば存在の気配というべきものがあり、それがたまたまなのか、あるいは意図的なのか、とにかくまざまざと画面に映された時に、人を引き付けて驚かせてくれるのです。

『見るレッスン』蓮實重彥(光文社新書) P.185

映画は、そのように、視覚的な表象性を超えて、存在することそのものの「艶」というか「色気」のようなものを、画面にとらえることがあるのです。

『見るレッスン』蓮實重彥(光文社新書) P.186

ここで語られる「色気」や「生なましさ」という概念は、蓮實の言う「見事なショット」の重要な要素であるように思われる。蓮實は「色気」という言葉を好んで使うが、「生なましさ」「艶」も、おおよそ近い概念だろう。この語についても、次章「上級編」で詳述するが、ひとまずここでは「(被写体の)存在そのものの気配」といった説明に留めておく。(敢えて俗っぽく言えば「存在感」や「リアリティ」という語の意味に近いように思えるが、こうした平板な用語に変換することは、おそらく蓮實の不興を買うように思う)


(8)ショットの「色気」と「運動」は深く関係している

例えば『香も高きケンタッキー』で描かれる馬のみずみずしさというか、色気のようなもの。それは馬は毛並みがきれいだとか、たてがみが美しいとか、額にある斑点が面白いとか、そういうことを超えて、運動する動物の魅力のようなものをフォードは的確にとらえている。実際、フォードほど馬を見事に撮った監督はおりません。黒澤明は「馬」は撮れても「馬の色気」は撮れないのです。ところが、フォードは馬が存在していることの「色気」のようなものをまざまざと画面に定着させているのです。

『見るレッスン』蓮實重彥(光文社新書)p.185

フォードの馬の描写が好例であるように、「運動」と「色気」とは深く関係しています。例えば、ローベル・ブレッソンは、緻密きわまりない撮り方をする監督だから、色気がないように思われるかもしれませんが、人物がフッと片手を上げた瞬間の動きには目を見張るものがあります。

『見るレッスン』蓮實重彥(光文社新書) P.188

蓮實の言う「色気」と「運動」は深く関係している。上の引用文ではジョン・フォード監督による「馬」の映像に言及しているが、「色気」とは、(一例としてだが)「運動する動物の魅力のようなもの」であり、「人物がフッと手を上げた瞬間の動き(の魅力)」だということになる。


(9)ショットは「物語」を超える、或いは「物語」に対する抵抗である

映画に物語は不可欠ですが、物語だけを表現してみせるのであれば、それは本当に見世物になってしまいます。ですから、それ以外のところに映画の面白さというものがあることも間違いない事実です。

『見るレッスン』蓮實重彥(光文社新書) P.184

普通に映画を見ている方々にも、撮影監督*のお仕事にはぜひとも注目していただきたいと思います。映画における画面というものは、物語を超えて、ショットそれ自体のすごさというものが備わっているからです。
*付録に用語説明あり

『見るレッスン』蓮實重彥(光文社新書) P.148

蓮實 (略)ショットとは語っている物語に対するある種の抵抗だと思う。抵抗というか、どこかで語りにさからっている。だからこそ物語が生きるはずなのに、どうでもいい画面を幾ら撮って繋げたって、映画からはそれて行くばかりです。

「三宅さん、ショットとはいったい何なんでしょうか?」三宅唱×蓮實重彦(『群像』2022年8月号) P.198

いずれにせよ、ショットの力に惹かれてとしかいいようがないかたちでその画面を記憶していたのです。不意の照明の変化、そしてあるしぐさの反復、というものが、物語を超えた瞬間をかたちづくっている

『ショットとは何か』蓮實重彦(講談社) P.81-82

蓮實:はい。いま引用していただいた箇所でわたくしが述べていたように、「可視的なイメージ」と「不可視の説話論的な構造*」との双方へ同時に注意を向けるということが、映画を見るうえでは重要な作業となってきます。これは至難の業ではありますが、そうしないと映画を見たことになりません。

WEBサイトGQ「蓮實重彦、『ジョン・フォード論』を語る」https://www.gqjapan.jp/culture/article/20220801-shiguehiko-hasumi-intv-1

「映画に物語は不可欠です」と蓮實も言うように、私たちが映画を観る(見る)際は、まずは無意識の裡にも「物語を捉えよう」としている。俗に言えば「筋を追う」ということだ。
それを踏まえて「ショットは物語を超える/物語に抵抗する」とはどういうことか。それをかみ砕いていえば、「筋を追っている観客に、優れたショットは、ハッと目を見開かせるような驚き(動揺)を与える」ということだと私は解釈した。
もう少し詳しく言えば、「漫然と筋を追っていた観客の目に突然飛び込んできた画面が、筋を追うことを一瞬忘れさせ、物語とは別の次元で感情を揺り動かされる」といったことがあり、これが「見事なショット」のもたらす映画体験だということになろう。
なお、上記引用文にて用いられる「可視的なイメージ」とは「画面(=ショット)」のことであり、「不可視の説話論的な構造*」とはひとまず「物語」のことだと言っておく。「これらの双方に同時に注意を向けることが映画を見るうえで重要だ」ということが、蓮實の主張になる。
(*「説話論的な構造」については本稿付録にて補足する)


(10)「ショットが撮れる監督」とは、絶対的な正解などないにもかかわらず、絶対的な正解があるかのように、ショットを撮れる監督

被写体に向けるべきキャメラの位置に正解はないにもかかわらず、優れた監督は正解があるかのように撮ってみせるという点を、実例を挙げながら考察しているのです。

『言葉はどこからやってくるのか』蓮實重彦(青土社) P.326

蓮實 原則として、絶対的なショットは一つしかないという確信をもって撮れる人がすごい監督だと思う。かりに、一つしかないという確信がフィクションだとしても、そのフィクションを肯定する監督が凄い人だと思っている人間です。

「三宅さん、ショットとはいったい何なんでしょうか?」三宅唱×蓮實重彦(『群像』2022年8月号)P.199

実際、フリッツ・ラングや、 アルフレッド・ヒッチコックや、マキノ雅弘の映画を見れば、そこでのショットが、どれもこれも、これしかないという的確な構図におさまっていると嘆息せざるをえない。被写体との距離も、それがショットとして持続するリズムも、完璧である。しかも、その的確さ、完璧さを立証するものなど、被写体にキャメラを向ける以前のこの世界に存在していたはずがない

『映画崩壊前夜』蓮實重彦(青土社) P.14-15

その意味で、エリア・カザンは「演出」の映画を撮っており、ニコラス・レイはそうではなく、「撮影」の映画と呼ぶべき種類の作品を撮っているといえるかもしれません。誰もがあらかじめ抱えていると想定される内面――意識だの、心理だの、悩みだの――がどのように画面に見えてくるかというのが「演出」の映画、すなわち「表象」にこだわる作品だとするなら、被写体にキャメラを向けることで画面に生成するとらえがたい運動の生なましい現在をいかにとらえるかに賭けているのが、「表象」を誇大視することのない「撮影」の映画といえばよいでしょう。

『ショットとは何か』蓮實重彦(講談社) P.64

この項目は特に補足は不要なのだが、屋上屋を重ねることになると知りつつ付け加えるならば、蓮實は「ショットの絶対的な正解など理論的には導き出せないが、ショットが撮れる監督とは、そのショットが、あたかも絶対の正解であると確信して撮ってみせる監督だ」と言っている。優れて美しいレトリックだと納得した次第である。
また、引用文中の「演出の映画-撮影の映画」という対称性による類別も、非常に興味深い。


(11)「ショットが撮れない監督」とは、「見ることの悦び」を感じさせてくれない監督

(山戸結希監督の)『ホットギミック』も原作は漫画ですが、とにかく細切れにカットを割ってしまうことで、俳優の表情も伝わらず、すべてがセリフによる説明になってしまっています。被写体に対する愛情や反発がまるでなく、見るに堪えないどうでもいいショットを次々と繰り返しているにすぎない。

『見るレッスン』蓮實重彥(光文社新書) P.57

(蜷川実花監督について)彼女は色の使い方で何かをしようとしているのですが、映画ってそういうものではない。運動感覚もないし時間をどうするかという葛藤も見えず、少しは反省してくださいと言う他ありません。

『見るレッスン』蓮實重彥(光文社新書) P.58

(マーティン・スコセッシ監督の映画について)あらゆるショット――構図、被写体との距離、アングル、その動き――が彼自身のやや粗雑な感性によって構成されているので、自分でも意識することなく撮れてしまったというみごとなショットが、彼の映画ではまったく不在なのです。

WEBサイト『考える人』(蓮實重彦ロングインタビュー 第3回)
 https://kangaeruhito.jp/interview/14523

また、比較的最近の作品でいうなら、例えばデイミアン・チャゼル監督のミュージカル『ラ・ラ・ランド」(2016)などにも、LAを遥かに見おろす高台での主役二人のデュエットがありますが、それは『バンド・ワゴン』の「ダンシング・イン・ザ・ダーク」のナンバーのようなショットへの感性というものがまるで感じられない凡庸な画面連鎖からなっており、見ることの悦びともいうべきものがまったく感知できません

『ショットとは何か』蓮實重彦(講談社) P.246

蓮實の映画批評の辛辣さは読者にはよく知られているが、ここでは「ショットが撮れる監督」を理解するための補助線として、「ショットが撮れない監督」についての言及をいくつか提示した。蓮實による「ショットが撮れない監督」に見られがちな傾向としては(一例だが)
・細切れのカット割りと、セリフのみによる(物語や心情の)説明
・運動感覚と時間への意識の低さ
・構図とアングル、被写体との距離とその動き、それら全体への感性の欠落
・凡庸な画面連鎖
などといったことがあげられる。


「見事なショット」とは②~上級編

ここからは上級編として、より抽象度の高い、言いかえれば晦渋な、ある意味で蓮實らしさ全開の文章を挙げていく。当然ながら、私自身がこれらの蓮實の文章を正しく理解できているとは全く思っていない。
ここからは原則として、解釈や補足を放棄し、いわば蓮實の言説を「放り投げる」ことに留めることとする。

(12)見事なショットは、「厳密でありながら穏やか」「雄弁でありながら寡黙」

ショットとは、何よりもまず「厳密」なものです。それは、たんにその被写体の機械論的な再現にまつわる「厳密」さのみを意味してはおりません。それが、上映中に現実に何秒持続したのか、またそれが何コマからなっているかは決まって計測できるものだからです。また、それがどのようなショットによって導き入れられ、そのあとにどんなショットが継起しているかという意味での「厳密」は、いったん作品が編集されてしまって以後はもはや動かしようもないという点で、これまた「厳密」 きわまりないものというほかありません。けれども、その一ショットをかたちづくっている視覚的な細部を詳しく確認して鮮明に記憶する手段を持っている者など、 この世界のどこにも存在しえません。つまり、誰もがその漠たる記憶によってそれを処理するしかないという意味で、それはきわめて「穏やか」な対象たらざるをえないのです。

『ショットとは何か』蓮實重彦(講談社) P.223

(略)そうした恋愛感情の微妙な推移にもまして、暮れなずむ戸外に二人を孤立させる成瀬巳喜男の、息を呑まずにはいられぬほど繊細な光線処理と、 それに費やされるショットの連鎖のリズムに、誰もが感動するしかないからなのです。 しかも、二人を包みこむ淡い光の横溢というこの映画作家による映画そのものの定義が、呆気ないほどの単純さでいつの間にか実現されていることへの深い動揺を、誰もが覚えずにはいられないのです。ですから、ここでは、みごとなショットの連鎖に対する見る者の動揺が問われていることになるのです。
とはいえ、ここでのショットは、どれひとつとして例外的なものではありません。ただ、その瞬間に必要とされるごく普通のショットだけが、この上なく有効に連鎖している。 ですから、ショットとは、このわたくしのエッセイの題名にふさわしく、その「寡黙な雄弁さ」によって、あるいは「雄弁なる寡黙さ」によって、見る者を動揺させるものだというべきときがきているのかもしれません。

『ショットとは何か』蓮實重彦(講談社) P.268-269

(略)そこに見られるショットの種類は、その長さやアングルはさまざまに異なっていながら、そのいずれにおいてもショットの厳密でありながらも穏やかな運動性、あるいは穏やかでありながらも厳密きわまりない運動性ともいうべきものが、わたくしたちをとらえて離しません。そこでは、ショットが作品そのものから解放されており、同時にわたくしたち自身を映画からも解放してくれるような思いをいだかせてくれるからです。そうした力能が一篇の作品にこめられているか否かで、優れた映画か否かが決まってくるのでしょう。

『ショットとは何か』蓮實重彦(講談社) P.263-264

いずれにせよ、映画における「ショット」は、それがどれほど長いものであれ、あるいはごく短いものであれ、それを構成している要素はたえず複数存在しており、かりにもその複数の要素からそれが顔なら顔のクローズアップだととらえることは、そこに映っているほかのさまざまなものをいったん捨象してかかることにほかならず、理論的な考察にあっては、きわめて恣意的なもの足らざるを得ないからです。

『ショットとは何か』蓮實重彦(講談社) P.164-165

 阿部 (略)けれども、これしかない撮り方と蓮實さんがおっしゃった時の「これしかない」というのは、ある種の厳密な計測に基づいたキャメラの位置だと思うんです。ある位置にキャメラを置いて、画角や被写体との距離を測ったうえで構図を決める。そうして厳密に計測されたものがある一方で、先ほど話に出たような一回性の要素もある。アクションとは、言ってみればコントロールできないものじゃないですか。
 三宅 そうですね。 厳密の対極にあるアンコントローラブルなもの。本書と『ショットとは何か』にも登場した「穏やかな厳密さ」あるいは「厳密な穏やかさ」という言葉を思い出します
 阿部 役者の生身、身体は、監督自身が完全にコントロールできるものではない。その時演じられたものを受け止めるしかないから、芝居開始までは作り込むんだけれども、カチンコが鳴った後は見まもるしかない。映画という表現にはそういう受動性が常に存在し、作り込みつつ受け身であることがセットになっている

「フォードの「うまさ」とは何か」蓮實重彦×阿部和重×三宅唱×三浦哲哉(『文學界』2022年9月号) P.174-175

映画が映画であることの真の驚き、それは、持続でもあれば同時にその断絶でもあるショットの現存にほかならない。実際、新たなショットに向けられる視線は、そのつど、持続とその断絶とが同じ一つの運動として成就してしまうのを、ただ呆気にとられて見ていることしかできない。しかも、目にしたはずのものは、もうそこにはない。ショットとは、とうてい人類には馴致しえぬ希薄な何かなのである。

『映画崩壊前夜』蓮實重彦(青土社)P.13-14

ショットとは、そこで生成と消滅とが同時に演じられるフィクションだとしかいえぬ不気味な何かである。存在していながら存在していないのがショットなのであり、あたかも見ているはしから、そこで世界が不在化してゆくとしか思えない。

『映画崩壊前夜』蓮實重彦(青土社)P.15

蓮實における「ショット」の核心に近いであろう文章をいくつか挙げた。『ショットとは何か』においても終章近くに、結論めいたこととして記されているのは「穏やかな厳密さ、あるいは、厳密な穏やかさ」や「寡黙な雄弁さ、あるいは、雄弁なる寡黙さ」であり、他の著作においても「持続と断絶」「生成と消滅」といった、幾分か逆接風味というか撞着語法的なというか弁証法的なというか、ともかくもレトリカルな表現が多い。
さて、本章の冒頭に「解釈も補足もしない」と述べた舌の根も乾かぬうちではあるものの、この項目については少しだけ私の解釈を書き足すことをお許しいただきたい。
まず、「ショットは、その秒数や前後のショットとの繋がりといった厳密に測定できる部分と、人間の曖昧な記憶に頼るしかない穏やかな漠たる全体像二面性を有する対象として捉えるべきもの」だということ。そして、「見事なショットは、過多な説明や徒な技巧を弄さない寡黙さによって、多くのことを雄弁に語っている」ということ。これらが、ひとまず現時点での私の解釈になる。
(最初に挙げた蓮實の手による晦渋な文章を理解する一助として、上記最後に挙げた『文學界(2022年9月号)』座談会記事中の阿部和重と三宅唱の発言はとても参考になった)


(13)「色気」とは、「まぎれもなくそこにいる」ことが見える瞬間

(「色気」を蓮實先生の言葉で定義するとどうなるのでしょうか。)
やはり、その人が存在しているということの、他人による説明を超えたあり方ではないでしょうか。ある人がそこにまぎれもなくいるということを、他人は何らかの形でいつでも説明したがります。主体と客体を安易に分断した上での、他人による支持や、他人による証明がある人を存在させているのだと考えられている。しかし、そんな証明書もなく、いかなる説明も必要とせず、ある人が、性別、国籍、年齢を超えて、そこにいるということが見えてしまう瞬間がある。その人が存在していることの色気を前にすると、もはや証明書は要りません。 他人による説明も必要ありません。 あなたは、まぎれもなく存在していますね、と言うしかない瞬間がそれです。

『言葉はどこからやってくるのか』蓮實重彦(青土社) P.289

蓮實はインタビュアーの「色気の定義は?」との質問に、上記のように答えている。私の感覚で、強いてこの中から最も核心に近いと思える一節を選ぶならば「ある人が、性別、国籍、年齢を超えて、そこにいるということが見えてしまう瞬間」になる。
なお、前章「基本編」でも見たように、「色気」をまとう被写体は人間には限られず、馬などの動物も含まれる。


(14)「運動」は、「動きをとめること」でも表現される

おそらくここで、人は、動きをとめることのうちに最大の映画的な運動が生きられるという小津的な逆説に改めて意識的たらざるをえまい。しばしば単調で動きにとぼしいなどといわれる小津安二郎であっても、その画面に映っている登場人物の全員が動きをとめてしまうといった瞬間がそうしばしばあるわけではない。だが、誰もがぴたりと動かなくなってしまう場面が、小津には明らかに存在している。(略)そうした条件を万遍なく満たしうるのは、いうまでもなく記念撮影の場面である

『監督 小津安二郎』蓮實重彦(ちくま学芸文庫) P.195-196

物語が動くとは、人物たちの関係がそれまでとは異なるものとなるということにほかならない。後期の小津の場合(略)その直接の契機となっているのが記念撮影の画面としてあるという事実、それが、動きをとめることのうちに最大の映画的運動が息づいていることの具体的な意味である。

『監督 小津安二郎』蓮實重彦(ちくま学芸文庫) P.201-202

いつも同じ地点に立っていては、そのつど画面を見失うしかない残酷とも呼べる運動性が、不断に更新させる現在としてそこに生なましく生きられている。動かずにいることの中の運動といったらいいか、静止しているかに見えるその画面には、いつでも複数の要素の厳しい葛藤が生きられていて、あるときは瞳を切りさき、またあるときは視線を途方に暮れさせもする。

『監督  小津安二郎』蓮實重彦(ちくま学芸文庫) P.12

だから、映画におけるショットを語る場合、そこに表象されている抽象的な構図だけではなく、それぞれの画面の主題論的な統一*が何によって維持されているのかを見てみる必要があります。もちろん、その主題とは、リュミエールで見たように、「動くこと」、あるいは「動きを止めること」、等々、映画にふさわしいさまざまな主題を通してショットが構成されているときに、真の意味で画面を活気づけるものなのです。

『ショットとは何か』蓮實重彦(講談社) P.139-140

蓮實のいう「運動」について、前章「入門編」ではひとまず「被写体の動き」と定義したが、これは正確に言えば「動きをとめること」も含まれる。引用文で具体的かつ象徴的な例として挙げられているのが、小津安二郎の映画における「記念撮影」の場面である。画面に映し出される人物全員が「ぴたりと動かなくなる」場面。蓮實はこれもまた映画における「運動」だと定義づけている。かつ、「記念撮影」の場面は小津の複数の映画中に存在し、それらがいずれも共通して「物語を動かす契機」になっているとしている。
(*引用文中の「主題論的な統一」については本稿付録にて補足する)


(15)「運動」は「心」と対になる概念でもある

(深田晃司監督の)『淵に立つ』は、本当によく撮れているしショットは見事ですが、行動の原理が運動ではなくやはり心なのです。そこがわたくしの琴線には響かない点です。

『見るレッスン』蓮實重彥(光文社新書) P.59

(深田晃司監督の『よこがお』について)キャメラワークは素晴らしいし、女優の演技や存在感も無視できないものがある。しかし結局のところは、「心」の問題に帰着してしまう。(略)どうも感情表現に帰着するのです。その意味ではムービングピクチャーではない。唯一動きがあるのは、彼女が自転車に乗っていくところ。

『見るレッスン』蓮實重彥(光文社新書) P.59-60

蓮實の映画批評における「運動」という用語は、「心」あるいは「感情表現」といった用語の対概念として用いられることがある。蓮實の琴線に触れるショットは、その行動の原理が「心」にあるものではなく、原理が「運動」にあるものだとのことだ。


(16)映画は「活劇」であるべきで、それは「ショット」の問題である

 蓮實 (略)もうひとつは、映画は活劇でなければならないということです。映画が活劇であるということは、アクション場面が多いといった題材の問題ではなく、ショットの問題である。(略)つまり、ショットが変わるときに、どきりとさせない。

『映画長話』蓮重彦 黒沢清 青山真治(リトルモア) P.319-320

ジャック・ターナー監督の『キャット・ピープル』(42)で、人影のたえた夜の街頭に漂う不穏な気配を察知したジェーン・ランドルフのかたわらに、いきなり滑り込んでくる黒いタクシー。息をのむ暇もなくもうそこに来ているというあの性急な登場ぶりが活劇的でなくて、いったい何だというのか

『映画崩壊前夜』蓮實重彦(青土社)P.12

蓮實 (略)もしクロサワさんが『影武者』で活劇を撮るつもりだったら、最後の合戦の場面も、たとえば馬の死体ではなかったろうし、それから、迎え撃つ織田軍の鉄砲その他をうんと派手に出すとかね、したと思うんです。ですから、話としては活劇になりえたのに、活劇になることを、巧妙に避けたということなのか、あるいは活劇というものが自分の体質でない、と思っておられて撮られなかったのかですね、そのへんのところを一度うかがってみたいと思ってたんですがね。

『映画狂人、語る。』蓮實重彦(川出書房新社)P.86


蓮實の映画批評においては「活劇」という言葉も時折重要な用語として現れる。これは上記引用文にあるように、一般的な「アクション映画」との意味ではなく、「ショットの問題」すなわち、「あらゆる映画は、見事なショットによって、活劇になる(活劇であるべきだ)」と主張されている。
上記引用文からは、映画の「活劇要素」とは、「ショットが変るときに、どきりとさせられること」であると読み取れる。


おわりに

ここまで綴ってきてはみたものの、蓮實の言う「ショット」について、私自身が十全に理解したとは、とてもではないが言い得ない。
それでも、私自身がこれまでに映画を観てきた中で、なぜ、ある「ショット」を見たことが、劇場にいたその時の私の鮮烈な映像体験となりえたのか、その理由について、おぼろげには分かってきた気がしている。

私はこれからも、映画を観ること、ショットを見ることを通して、「きまって人間の視線を逃れ、それを無効にする『映画』と呼ばれるあの不在なるものの輝きに、いつまでも魅せられていたい*」と思う。
(*『ショットとは何か』 P.202より)

(了)

付録

①:関連用語についての補足

蓮實の映画批評において特徴的(あるいは特権的)に用いられる、「説話論的な持続/構造」「主題論的な体系」の二つの用語について、参照できる文章を以下に引用する。私自身は、これらを明快かつ正確に解説する能力は持っていない。深く正確に理解されたい方は、ご自身で蓮實の著作にあたるなどして考察願いたい。

(1)説話論的な持続/説話論的な構造

対立が融合へと向かう運動、それが真の意味での小津の物語だ。この物語を、個々の作品の画面の連鎖を支える物語と混同しないために、説話論的な構造と呼ぶことにしよう。そしてその構造が、一貫した持続として物語を異質の領域へと移動させる意義深い細部を主題と呼んでみたい。

『監督  小津安二郎』蓮實重彦(ちくま学芸文庫) P.40

実際、物語を欠いた映画というものは存在しない。(略)上映時間が零秒でない限り、そこには物語があり、それに応じて説話論的な持続というものが存在する。だから小津の作品にももちろん物語があるわけだが、これまで、抑制、洗練化という言葉で語られてきたものは、おそらく小津の説話論的な構造を特徴づけるものとしてはある種の妥当性を持ちうるかもしれない。徐々に溶明=溶暗を放棄し、移動撮影やクローズ・アップをほとんど使用しなくなっていったのは、劇的な要素を回避するという説話技法の水準で論じらるべき問題なのだ。

『監督  小津安二郎』蓮實重彦(ちくま学芸文庫) P.133-134

フィルムの説話論的な持続は、いかなる技術的な洗練も特異な想像力もそれに抗いえない一つの絶対的な体系なのであり、どれほどの天分に恵まれた作家といえどもそれに拘束されるほかはない。

『監督  小津安二郎』蓮實重彦(ちくま学芸文庫) P.137

説話論的な構造はあくまで画面連鎖の統合的な秩序にすぎず、それじたいは語る運動ではない。物語を語るとは、説話論的な持続を異質な水準へと移行させることであり、その直接の力となるのは、ともすれば直線的な継起性から逸脱しようとする過剰な細部たちが戯れあうその刺激そのものなのだ。

『監督  小津安二郎』蓮實重彦(ちくま学芸文庫) P.140

以下は、上記についての解説や解釈ではなく、個人的な雑感である。
おそらく「説話」とは「ナラティブ」、説話論とは「ナラトロジー」の訳語なのではないかと想像するが、確認したわけではない。「説話論的な持続」とは、「映画が語っていることの継続性(その続いている時間)」、「説話論的な構造」とは、その「映画が語っていることに内在する構造(表面的なストーリー自体ではない)」といったことだろうと推察しているが、まったくの的外れかもしれない。


(2)主題論的な体系

だが、物語が具体的な画面を介してしか語られない映画の場合、一篇の作品には説話論的な構造に同調したりそれにさからったりもするいま一つの体系が存在する。それは画面の継起的な連鎖を超え、時間軸とは異質の領域で交錯しあう意義深い細部の表情といったもので、それをこれまで主題論的な体系と呼んできたのだ。小津にとどまらずあらゆる作家が、そこで思いきり自分の想像力を解放する場こそが主題論的な体系なのだといってもよいが、小津の場合、抑制と洗練化の結果ほとんど禁欲的な表情におさまることになった説話論的な構造とは対照的に、この主題論的な体系にあってはむしろ野蛮で凶暴なまでに自分を主張し、全篇の調和を崩しかねないことさえあるといえる。

『監督  小津安二郎』蓮實重彦(ちくま学芸文庫) P.134

説話論的な構造が直線的な継起性へと還元されざるをえないものだとするなら、映画はその直線性に逆らういま一つの体系を持っている。それは、誇張や逸脱が可能な領域であり、そこで人目を惹く過剰な細部は、画面の連鎖を超え、さらには作品という限界を超えて些細な類似を介して別の細部と響応しあう。そのような共鳴音を響かせうる視覚的な細部が、これまで主題と呼んできたものだ。こうした細部が交わし合う微笑は、画面の連鎖という直線性から自由であり、空間的な拡がりを持っているといえる。だがそれを、記号論的な用語ですぐに範列と呼ぶのはさしひかえたい。主題論的な体系とは、選択可能な細部の潜在的な貯蔵庫ではなく、あくまで顕在的で複数たることを容認された断片の群が戯れあう運動として生きられるものだからである。

『監督  小津安二郎』蓮實重彦(ちくま学芸文庫) P.138-139

おそらく、ここで、「主題」という語彙について改めて触れておく必要があるかもしれない。ボクダノヴィッチがその一語にこめようとしているのは、見る者が作品に読みとる作者の意図の複数の中心の一つといったものにほかならず、例えば「囚われる」ことのように、観客の解釈以前に画面に露呈されている「フィルム的な現実」の意義深い連鎖や配置をいうのではない。

『ジョン・フォード論』蓮實重彦(文藝春秋) P.227

その種の道徳的な価値判断によって初めて思考の場に浮上する概念を指摘され、「偶然の一致だと思うが」とうそぶくとき、監督ジョン・フォードは決定的に正しい。 わたくしもまた、その種の概念を「主題」と呼ぶことはさしひかえたいと思う。 ここで「囚われる」ことの主題としてその痕跡をたどってきたのは、第五章で使う「投げる」ことの主題がそうであるように、 画面で具体的に演じられている存在や事物のまぎれもなく目に見える文字通りの運動にほかならず、そこにはいかなる道徳的な価値もこびりついてはいなかったはずだ。

『ジョン・フォード論』蓮實重彦(文藝春秋) P.228

以下も、上記についての個人的な雑感である。
「主題論的」とは「テマティック(thematic)」の訳語だと蓮實自身は語っている(以下リンク記事参照)。この「テマティック」の語幹は「テーマ(theme)」だが、日本語におけるいわゆる「テーマ=主題」とは全く意味が異なる。蓮實の用いる「主題」の意味は、「ある映画作家が、複数の作品において、繰り返し用いる映像の題材(映される細部、登場人物の行動や仕草、特定の場面など)」のことだと言って、概ね間違いではないと思われる。
本記事の引用文中で示された例としては「小津映画における記念写真撮影」、ジョン・フォード監督の諸作品における「ものを投げること」「囚われること」「マッチで火を付けること」も蓮實の言う「主題」となる。
蓮實はまた、「主題」について「道徳的価値判断」(これは俗にいう「作者のメッセージ」に近い意味だろう)とも関連しないと語っている。

なお、蓮實の主題論(テマティズム)については、佐々木敦による以下のような解説がある。

蓮實はバルトやリシャールから受け継いだ「テマティズム(主題論)」という方法論を映画や文学の批評に盛んに応用していきますが、 それは映画作家や小説家の企図とは無関係に、ある「作品」に散見されるテーマ群――色彩や形象や数など――を拾い出しては繋ぎ合わせ、その「作品」が語っていることになっているのとは別の、もうひとつの「物語」を紡ぎ上げるというものです。

『ニッポンの思想』佐々木敦(講談社現代新書)P.122



②:蓮實の語る「ショット」の事例

ここでは、蓮實自身による「見事なショット」の事例への言及を2つ挙げる。なお、この2事例の選択は、あくまで私個人の好みにすぎないことを断っておく。

●『秋刀魚の味』(小津安二郎)の事例

だが、そうした心理的な共感を超えたところで、この場面は感動的なのだ。というのも、そこでの画面の流れは、披露宴も無事に終った後の笠智衆の淋しげな容貌を夜の暗さにきわだたせながら、それに加えて、すっかり空になった二階の部屋の人影が絶えたさまを示す数ショットを、奥に姿見だけが細長い鈍さで光っている画面とともに示した上で、さらに、一階と二階を結ぶ階段のフルショットを、たった一つ、それもほんの一瞬だけ短く挿入し、孤独さがたんに父親個人の感慨にとどまらず、後期の小津的「作品」そのものの絶対的な孤独ぶりとして顕在化させているからである。
(略)
だが、階段のフルショットは、そんな感傷を超えた決定的な衝撃によってフィルム的感性を揺さぶるのだ。そしてその衝撃が現実のものであるが故に、『秋刀魚の味』の最後は感動的なものとなるのだ。

『監督  小津安二郎』蓮實重彦(ちくま学芸文庫) P.125

●『サッド ヴァケイション』(青山真治)の事例

まっすぐにのびるあまり広くはない通りを、一人の若い女性が、 キャリーバッグを引きずるように進んでくる。女は、画面にとらえられてはいない目的地へと、ひたむきにたどりつこうとしているように見える。
 このたった一つのショットから、青山真治の『サッド ヴァケイション』の比類なき貴重さを語ってみたいと思うのだが、それを語りつくせるかどうかはいたっておぼつかない。
(略)
 作品の冒頭ではなく、ましてやその中心に位置しているわけでもない問題のショットは、ごく単純な要素からなっている。 遥かな海の拡がりを背後に予感させる眺望の開けた風景の中で、ただ路上の女性だけが、見えてはいない海から遠ざかるように歩いているのである。思いつめたような足どりでこちらに向かって進んでくるその姿は正面からの俯瞰のロングショットにおさまり、見た目にはごく小さなものでしかない。しかし、一人であることの誇りを一歩ごとに踏みしめているかのような寡黙な歩行ぶりが、彼女の輪郭をことさら鮮明なものに見せている。その小さな人影を、キャメラは真昼の路上にいくぶん逆光気味にきわだたせ、その背後に、真っ赤に塗られた大きな橋を構図の上部にくっきりと浮きあがらせる。それは、ほんの一瞬、瞳を惹きつけるごく短いショットでありながら、それを見てしまった衝撃を記憶から遠ざけることはむつかしい。
(略)
ときならぬ視界の深まりのもたらす透明感が、誰とも知れぬこの若い女のまわりに、これまでとは異なる時間をいきなりつむぎだすかにみえる。その新たな時間を自分一人で背負ってみせると自負しているかのような歩調の健気さに、見る者はある異変を感じとらずにはいられない。何やら新たな始まりに立ち会いつつあるかのような胸騒ぎさえ覚えもするほど、これは見事なショットなのである。

『映画崩壊前夜』蓮實重彦(青土社) P.79-80


③:廣瀬純『ショットとは何か』論からの抜粋

以下は、『群像』2022年7月号に掲載された、廣瀬純による批評の一部である。蓮實の『ショットとは何か』について論じたもので、蓮實の文言を引用してのサマリーに類した部分である。(引用文中の数字は『ショットとは何か』における頁数)

「誰もが物語をたどることが映画を見ることだと勘違いしている」が、「映画で物語をたどることと画面を見るとは、まったく別の作業」(105)であり、「ショット」とは、「物語の展開」(104)の只中にあってなおその「持続」から自らと観客とを同時に「解放する」(263)力を持った画面のことである。

「Name Is Johnny…, Guitar. 蓮實重彦『ショットとは何か』論」廣瀬純(『群像』2022年7月号) P.157

ショットは「雄弁」でありながら「寡黙」で(269)、「厳密」でありながら「穏やか」だからだ(223)。画面上に「そこで語られている物語を超え」る(263-364)雄弁さを組織する作業は厳密さを以てなされる他ないが、しかし、「その一ショットをかたちづくっている視覚的な細部を詳しく確認して鮮明に記憶する手段を持っている者など、この世界のどこにも存在しえ」ず、「誰もがその漠たる記憶によってそれを処理するしかない(223)。この穏やかさが、見終わった瞬間から見たことを忘れさせる。ショットはまた、おのれの存在を声高に表明したりしない。この寡黙さが、見ている瞬間に見ることを忘れさせる。

「Name Is Johnny…, Guitar. 蓮實重彦『ショットとは何か』論」廣瀬純(『群像』2022年7月号) P.157-158

④:北村匡平『24フレームの映画学』中の「蓮實の表層批評・主題論的分析」の要約

一九七〇年代から八〇年代にかけて映画批評のあり方を一変させた蓮實重彦の「表層批評」は一時代を画す批評の方法をもたらした。 ロラン・バルトやジャン=ピエール・リシャールの影響を受けた蓮實は「テマティスム」を映画や文学に応用した。 それは純粋に「スクリーン=画面=表層」を凝視することで、「説話=物語」に還元されない具体的な出来事=「主題」(身振り、色彩、数など)や細部の饗応関係から、批評によってもう一つの「作品」を創造すること、そして作り手さえも意図していなかったテクスト同士の「遭遇」 から作家主義とは別の仕方で「作家」を抽出すること――蓮實の「表層批評」や「主題論的分析」 はおよそこのようにまとめることができるだろう。

『24フレームの映画学 映像表現を解体する』北村匡平 (晃洋書房) P.5

⑤:『フィルム・スタディーズ事典』によるいくつかの用語説明

ショット shot
(1)カットなしで、カメラを止めないで一度で撮影され、持続的に露光されたフィルム片。この場合、カメラワーク、 カメラ前の撮影対象の動き、焦点の変化は許容される。
(2)シーンとシークェンスを構成する最小の単位。アメリカ人監督、D・W・グリフィスは、一つのシーンのアクションを劇的な目的のために分割した最初の監督として一般的に評価されている。 古典的ハリウッド映画では、すべてのショットは観客が物語を追えるように、また観客の情緒的感動を高めるように意図されている。
(3)プリントされ、編集された一つのテイク。
(4)カメラが持続して撮影したように見えるスクリーン上のアクション。例えば『ロープ』 (1948) では、アルフレッド・ヒッチコックは、カメラ・マガジンのリールサイズのせいで余儀なく実行したカットを隠している。そのため映画全体が一つのショットのように見えるが、実際はそうではない。

ショットはいくつかの方法で分類される。
(a)ショットの継続時間に従って:サブリミナル・インサートからロング・テイクまで。
(b)撮影対象とカメラとの距離(ズーム・ショットの場合は、見かけの距離)に従って:大クロースアップから超ロング・ショットまで。
(c)対象を見るカメラ・アングルに従って:地面下から撮るショットから空撮ショットまで。
(d)カメラの動きに従って:ドリー・ショット、パン・ショット、トラッキング・ショット、クレーン・ショットなど。
(e)フレームのなかの登場人物の数に従って:ワン・ショット、ツー・ショットなど。
また、(f)使用される特殊技術に従って:例えば、マット・シヨットとデープ・フォーカス・ショットがある。

ショットは、カット、ディゾルヴ、スーパーインポーズ、フェイド、ワイプのような場面転換の技法によってつながれている。

*改行は引用者による

『フィルム・スタディーズ事典―映画・映像用語のすべて』スティーヴ ブランドフォード, ジム ヒリアー, バリー・キース グラント (フィルムアート社) P.170-171

モンタージュ montage
「集める」という意味のフランス語 monter から派生した用語。 この言葉は、映画のコンテクストで使用されると、いくつかの意味をもつ。
(1) 一般的には、編集ないしはデクパージュと同義語。
(2)ハリウッド映画では、短いショット、ないしはスーパーインポーズ、カット、ジャンプ・カット、ワイプ、ディゾルヴのような技法を使用した凝縮されたシークェンス。このシークェンスの目的は、時間と空間、あるいは状況における、ある特定の経験ないしは推移を手短に総括するために、 万華鏡的効果を生み出すことである(またこれは、ヴォルカピッチとして知られている)。ヴォルカピッチ・モンタージュとは、極端に主観的な精神状態をつなげた表現主義的シークェンスをいう。『ブロンドの殺人者』(エドワード・ドミトリク監督、1944)での麻薬を吸って人事不省のマーローや、『ビッグ・リボウスキ』(ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン監督、1998)におけるタイトルロールのバズビー・バークリーの空想に見られる。
(3)ヨーロッパ映画では、さまざまなショットを完成版の映画に編集する過程。映画の計画的な構築を重視するこの見方は、アメリカの用語である「カット」が示唆する、物語の効率のよさのために映画を整えることとは対極にある。したがって、ヨーロッパ的モンタージュは、芸術様式としての映画をより高く評価している。
(4) セルゲイ・エイゼンシュテインらが発展させた主題モンタージュ、ないしは(ソビエト的モンタージュとして知られている)弁証法的モンタージュ。つまり、衝突、ひいては不連続という原理に従って配列されたショットである。このモンタージュが示そうとしているのは、エイゼンシュテインの『十月』(1928) で、 毛繕いをする孔雀とケレンスキーの手の込んだ制服の細部をインター・カットしてケレンスキーの虚栄を暗示するときのように、個別のショットには含まれていない概念をほのめかすことである。
(5)どんなシークェンスであっても、編集の結果として、特に注目に値する効果を生み出したシークェンス。この意味では、『サイコ』(アルフレッド・ヒッチコック監督、1960)におけるシャワー室での殺人は、『戦艦ポチョムキン』(セルゲイ・エイゼンシュテイン監督、1925)におけるオデッサの階段のシークェンスと同程度に、一つのモンタージュである(ヒッチコックはかつて自分の映画が「つなぎ合わされた拙品」であると述べた)。

*改行は引用者による

『フィルム・スタディーズ事典―映画・映像用語のすべて』 スティーヴ ブランドフォード, ジム ヒリアー, バリー・キース グラント(フィルムアート社) P.377-378

デクパージュ découpage
ある映画、 あるシーンの編集方法(découpageの文字通りの意味は、「切り取る」)、あるいはある映画、あるいはあるシーンのショットへの分割方法を指すフランス語の用語。 この用語はあらゆるカット割りを指すことができるが、デクパージュおよび古典的デクパージュといえば、ハリウッド映画に具現されているような、とりわけコンティニュイティ編集*の古典的なスタイルを指すことが多い。これと逆の編集技法がモンタージュ編集である。 デクパージュは、ミザンセーヌやプラン・セカンスのようなフランス語の用語と同じく、1960年代、70年代のフランス映画批評の影響を受けて、英語のなかに映画批評言語として今なお残っている。

『フィルム・スタディーズ事典―映画・映像用語のすべて』スティーヴ ブランドフォード, ジム ヒリアー, バリー・キース グラント(フィルムアート社) P.238

コンティニュイティ編集、連続編集 continuity editing
個々のシーンの物語アクションが連続し継続しているという感じを維持しながら、観客にリアリティ感を抱かせるような映画編集。コンティニュイティ編集は、連続性を最大限に高め、継ぎ目(つなぎ目)をなくし、編集していること自体を意識させないようにする(例えば、逆にジャンプ・カットやテーマ・モンタージュ*は意識させる)ため、インヴィジブル編集と呼ばれることもある。とはいえ、同時に、コンティニュイティ編集は、強調点を劇的に構成したり、登場人物と観客の同一化をコントロールしたりすることによって、観客の反応も方向づけようとする。 コンティニュイティ編集に特有の技術は、二つの画面における方向感覚を一致させるマッチ・カット、アイライン・マッチ、ショット=切り返レショットなどである。物語映画のこうした構成法は古典的物語映画の基盤となっている。

『フィルム・スタディーズ事典―映画・映像用語のすべて』 スティーヴ ブランドフォード, ジム ヒリアー, バリー・キース グラント(フィルムアート社) P.122

テーマ・モンタージュ、主題的モンタージュ thematic montage
ソビエトの映画製作者セルゲイ・エイゼンシュテインによって生み出された編集の一方法。別々のショットが文字通りの、すなわち物語的な連続性によってつなぎ合わされるのでなく、象徴的な関連によってつながれること。エイゼンシュテインや他の1920年代の映画製作者たちは、クレショフ実験に大きな影響を受け、観客の映像解釈を根本的に左右するような映像編集を実践したのであった。

『フィルム・スタディーズ事典―映画・映像用語のすべて』 スティーヴ ブランドフォード, ジム ヒリアー, バリー・キース グラント(フィルムアート社) P.240

撮影監督、シネマトグラファー director of photography,  cinematographer
映画の照明と撮影に全面的に責任を負う人物を指す。その作業の中には、カメラを設置し動かす、照明を配置する、映像の構図を決める、レンズを選ぶなどの作業が含まれる。撮影ディレクター、照明カメラマンと呼ばれることもある。 大規模な製作では、撮影監督のもとで働く部局全体と共同で作業を行う。 映画の外観に対して責任を負うという点で、撮影監督は、監督に次ぐ重要性をもつ。撮影監督と監督の二人は、撮影の前やセットあるいはロケ現場に臨んで、緊密に協同して作業することがよく行われる。多くの監督は、映画の成功に果たした撮影監督の役割に対し、惜しみない賞賛を贈る。その一例が、『市民ケーン』(1941)のときのオーソン・ウェルズである。彼は、ディープ・フォーカス撮影の広範な使用など、この映画の映画的新機軸に(撮影監督である)グレッグ・トーランドが多大な貢献を果たしたことを認めたのである。 重要な撮影監督の多くは、次第に自分でフィーチャー映画を監督するようになる。例えば、ハスケル・ウェクスラー(『アメリカを斬る』[1969])、ニコラス・ローグ(『パフォーマンス/青春の罠』 [1970])、ドナルド・キャメルと共同監督])、そしてクリス・メンゲス(『ワールド・アパート』 [1987])などのように。 ただし、(撮影監督のときと)同程度の成功を収めることはまれである。

『フィルム・スタディーズ事典―映画・映像用語のすべて』 スティーヴ ブランドフォード, ジム ヒリアー, バリー・キース グラント(フィルムアート社) P.129-130

カメラ・オペレーター (カメラマン) camera operator 
カメラ・オペレーターは、しばしばカメラマンを総括的に指す呼称として知られているが、規模の大きな製作においては、撮影監督あるいはシネマトグラファーの指示に従って働くカメラ・クルーの主要なメンバーである。オペレーターは、撮影中、カメラの物理的な操作およびカメラワークに責任を負う。 そこには、ビューファインダーを通して、映像がアングル、焦点、フレームの点で正しいかどうかを確認する仕事も含まれる。 規模の小さな製作では、カメラ・オペレーターと撮影監督を同一の人間が務める場合もある。規模の大きな製作に話を戻せば、製作規模が大きくなればなるほど、オペレーター自身、より多くの助手を抱えるようになる。その中には、フィルムを装填したり、 フォーカスを合わせたりする仕事を担当する助手が含まれており、そうした仕事を引き受けるのが第一撮影監督助手である。

『フィルム・スタディーズ事典―映画・映像用語のすべて』スティーヴ ブランドフォード, ジム ヒリアー, バリー・キース グラント (フィルムアート社) P.66

⑥:『映画史を学ぶクリティカル・ワーズ』によるいくつかの用語説明

ショット shot
(一部抜粋)「ショット」を規定するなら、それはカメラが記録する出来事を視点の変化を通して論理的な連続性(=コンティニュイティ)を構成するような時空的に一かたまりになった映画の基本単位である、ということができる。

『映画史を学ぶクリティカル・ワーズ』村山匡一郎 編 (フィルムアート社) P.51-52

モンタージュ理論 montage
(一部抜粋)映画用語のモンタージュは「組み立て」という意味のフランス語を語源とし、一般にフィルムの編集を意味するが、特定の効果を狙う特殊な編集を指すことも多く、いわゆるモンタージュ理論の「モンタージュ」もまた、後者の意味で用いられている。

『映画史を学ぶクリティカル・ワーズ』村山匡一郎 編 (フィルムアート社) P.91

⑦:『映画理論講義』による「ショット」の概念

 きわめて広範に流布している「ショット」という通念は、これら諸々の要因(サイズ、フレーム、視点に加え、動き、 持続時間、リズム、他の映像とのなど)の全体を包含するものである。この語もまた紛れもない技術用語であり、映画(フィルム)の制作(ファブリカシオン)の実践において(また単なる鑑賞の実践においても)非常に頻繁に用いられる。

 撮影の段階では、「ショット」という言葉は 「フレーム」、「画面」、「テイク」とほぼ同義に用いられる。 だから、それは出来事に対する特定の視点 (フレーミング)と特定の持続時間の両方を指している。
 編集の段階では、ショットの定義はより厳密なものとなる。すなわち、それは編集の真の単位となり、他の断片と組み合わされて映画作品を構成してゆく、フィルムの最小断片となるのである。
 通常はこの2番目の意味が1番目の意味を実質的に決定づけている。 ショットはたいてい、暗黙の内に(かつほとんど同語反復的に)、「2つのショット転換に挟まれたあらゆるフィルム断片」として定義される。そして撮影に際しては、一種の拡大解釈によって、モーターがスタートしてから停止するまで、間断なくキャメラ内を通過するあらゆるフィルム断片が「ショット」と称されるのである。
 したがって、編集された映画作品の中に現れるショットは、撮影時にキャメラに収められたショットの一部ということになる(編集の現場では前者を後者から区別して「カット」と呼ぶ)。実際、編集における重要な作業の1つは、撮影されたショットから、一方で各種の技術的夾雑物(カチンコの映像など)を、他方で収録はされたが最終的な構成には不要と判断されたすべての要素を取り除くことにある。

 このように「ショット」という言葉は映画(フィルム)の実作において広く普及した、きわめて便利なものではあるが、逆に,映画を理論的に探究する上では、まさしくその経験的な由来ゆえに扱いの難しい通念であるということは強調しておかなかればならない。映画理論では、「ショット」という術語は少なくとも3種類の文脈において用いられる。

(a) サイズに関して
通常、ショットは色々な “大きさ”に区分され、それはたいてい人物について想定しうる各種のフレーミングを基準にしている。一般に認められている分類は、例えば次のようなものである――超ロング・ショット(遠景)、ロング・ショットまたはフル・ショット(セットの全景や人物の全身像)、ミディアム・ロング・ショットまたはアメリカン・ショット(膝や腿から上の人物像)、ミディアム・ショット(腰から上の人物象)、ミディアム・クロース・アップ(胸から上の人物像)、クロース・アップ(顔などの大写しし)。こうした「ショット・サイズ」をめぐる考察は、実は2つの異なる問題体系を含んでいる。

●まず、フレーミングの問題があり、これはフレームに関わる他の諸問題と本質的に異なるものではなく、より広くは、表象される出来事に対するキャメラの視点の設定という問題に含まれる。
●他方、これらのサイズがまさしく人間を基準として決定されていることから、より包括的な理論的=イデオロギー的問題が提起される。ここにもまた、人体の均整を求め、その表象の規則を探った、ルネサンスの探求の名残のようなものが読み取れる。より具体的には、ショットの“大きさ”に関してこのように人間が暗黙の尺度となったことで、あらゆる形象作用が常に多かれ少なかれ、登場人物のそれに還元されることになったのである。このことは特にクロース・アップの場合に顕著であり、このサイズは(少なくとも古典的映画においては)ほとんど常に顔を示すために用いられてきた。 つまり、"大写しの”視点がもたらしかねない、異常で、並外れた、ひいては不安をかき立てるような印象を消し去る形で用いられてきたのである。

(b)動きに関して
ここでの範列(パラディグム)を構成するのは、ショット全体を通じてキャメラが不動である「固定ショット」と、各種の移動撮影、パンやティルト、さらにはズームも含めた、何らかの「キャメラの動き」を伴うショットであろう。この問題は前のそれと密接な相関をなしており、ここでもまた視点の設定ということが関係してくる。
 ちなみに、キャメラの動きをめぐっては、これまでしばしば、パンやティルトは眼や首を動かす際の視線の動きに相当し、また移動撮影は体ごと動いて行く際の視線の移行に相当するといった類の解釈が唱えられてきた。ズームについては、視線の主体として想定される者の単なる動作に託して解釈することは難しいものの、時には眼前の光景に対する “注意の焦点化”として読み取ろうとする試みも行われた。これらの解釈は時に正しいこともあるが(特に「主観的ショット」と呼ばれるもの、つまり“登場人物の見た目” によるショットの場合)、一般的な有効性はまったくない。それらはせいぜい、映画に関するあらゆる考察において、キャメラが肉眼と同一視される傾向があるということを示しているにすぎないのである。この点については、第5章で「同一化」の見地からあらためて論じることにする。

(c)持続時間に関して
ショットを“編集の単位”と定義することは、実は非常に短い(1秒かそれ以下の)断片や、非常に長い(数分に及ぶ)断片を、等しくショットとみなすことを意味している。経験的な定義では、持続時間はショットの本質的要素とされているが、この用語をめぐって最も複雑な問題が生じるのもまさしくその点においてなのである。最も頻繁に取り上げられる問題は、「ショット・シークェンス」という表現の出現と用法に関するもので、これは持続時間がきわめて長く、1つのシークェンスに相当するくらいの出来事を含む(すなわち複数の異なる出来事が連鎖し、継起してゆく)ショットを指す表現である。 ジャン・ミトリやクリスチャン・メッツをはじめとする幾人かの理論家たちは、そうした“ショット”が実質的には、より短く、かつ多かれ少なかれ容易に区切ることのできる断片群の集積に相当するものであることを明確に論じた。このため、ショット・シークェンスは形式的には1つのショットであっても(あらゆるショットがそうであるように、それは前後2箇所の “接合(スプライス)”によって区切られている)、たいていの場合、それは1つのシークェンスと交換可能なものとみなされるのである。もちろん、ここではすべてが映画(フィルム)に対するアプローチの仕方にかかっている。めざす目的が単にショットを区切り、数え上げることにあるのか、あるいは物語(レシ)の展開を分析することにあるのか、はたまたモンタージュを検討することにあるのかによって、ショット・シークェンスは異なった扱いを受けるのである。
 これらすべての理由――言葉の意味そのものに含まれる曖昧さや、1本の映画(フィルム)をより小さな単位に分割する際に必ず生じる理論的な困難――のために、「ショット」という言葉は慎重に用いるべきであり、できれば避けた方がよい。少なくとも、それを使う場合には、それが包摂するものと隠蔽するものを明確に意識しておかなければならない。

『映画理論講義: 映像の理解と探究のために』 J.オーモン、A.ベルガラ、M.マリー、M.ヴェルネ(勁草書房)P.42-47


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