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『あんのこと』 ~ 無垢の笑みを思う~
劇場で『あんのこと』を観た。薬物常習者である若い女性が周囲の助けを借りて更生していくさまを描いた映画である。
実話に基づく物語であり、河合優実演じる杏(役名)、佐藤二朗演じる多々羅(役名)、稲垣吾郎演じる桐野(役名)にはモデルとなった実在の人物がいるとのことだ。
(この記事は映画の結末等には触れていないが、プロットの重要な展開について触れている箇所がある。未観賞の方はご注意いただきたい。)
映画の制作の切っ掛けとなったのは、2020年6月の新聞記事とのことで、その記事は今でもネット上で読むことが出来る(有料記事)。
また、多々羅のモデルとなった人物についても、新聞記事や講演などを扱ったウェブ記事を読むことが出来る(実名となっているので、こちらは直接のリンクは控える)。
僕は、映画を観た後に検索などで見つけて当該の記事を読んだのだが、さらなる大きな衝撃を受けた。
映画は、いわゆる三幕構成として言えば、主人公である杏が「警察に捕まり多々羅と出会う」「多々羅とともに更正に向かう」「突然のコロナ禍で積み上げてきたものが崩れていく」といった構成になろう。
映画においては、(僕の主観では)二幕目を中心に描かれ、三幕目はやや急ぎ足になったような印象をもったのだが、件の「杏のモデルとなった女性」についての新聞記事は、劇中の三幕目にあたる「悲劇」について特に心に刺さる。短い文章でありながら、その「現実感」は、やはりフィクションを軽々と超える(記事では「ハナ」という仮名で記載されている)。
そうとうに苛烈な状況と感じた映画の場面でさえ、この「報道された事実」の前では、まだ控えめだったのかもしれないと想像してしまう。
もちろん、あらゆる報道は送り手の主観や解釈の上で発信されているという意味での物語化はなされているわけだが、それでもやはり、肌触りとしての「現実感」は、フィクションとは全く異なる。
映画に話を戻せば、その中で救いだったことは、上述の「第二幕」で時折見せる、杏の無垢な笑顔だ。
河合優実は、杏を演じるにあたって、モデルとなった「ハナさん(仮名)」を直接見知っていた記者の方の話として、その「笑み」について下のように話している。
「いつもニコニコ笑っていて、人見知りというか照れているような感じ。仲のいい大人と一緒だとその人の陰に隠れたがるような、ちょっと幼い女の子のような印象」
また、その杏の笑みに、僕が確かな体温(あるいは実存といってもよい)を感じることができたのは、その対照となった多々羅(佐藤)と桐野(稲垣)の存在も大きかったように思う。
杏とコントラストを描く、多々羅の真情と猥雑、桐野の思慮と策略。その所作も「動」と「静」で対称を描き、それぞれを際立たせる見事な三者のトライアングルであったように思う。
そんな中で、杏が劇中で見せていたような笑みを、実際のハナさんも、コロナ禍で色々なものが崩れていく前には見せていたのだろうか。見せていたのだと願わずにはいられない。
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なお、劇中での刑事の「犯罪」については、細部は異なるものの一定程度は事実であり、2022年に二審でも有罪判決が出ているようだ(一部報道には有罪判決確定との記載があった)。
また、その「犯罪」が公知になる以前の、「薬物常習者の更正に力を尽くす元刑事」という文脈にある記事も今でも読むことが出来る。
劇中での多々羅への思いも複雑であるが、リアルな事件におけるこの人物に対しても、複雑な思いを持たざるを得ない。
人間の善と悪、清と濁、無垢と穢れ。圧倒的な「事実」を前に、単純な二元論では収まりがつかない人間というものの複雑さを思い知らされる。
ただ、その複雑さを飲み込んだ上で、最後に蛇足を一つ。
僕はこの映画を観て、辻征夫という詩人の、「蟻の涙」という題名の詩を思い出した。この詩の「きみ」が、必ずしも杏やハナさんと重なるわけではないのだが、それでも「ちいさな無垢」という言葉は、僕の中では劇中の杏の笑み、想像の中でのハナさんの笑みと重なるのだ。
蟻の涙(一部抜粋) 辻征夫
きみのなかに残っているにちがいない
ちいさな無垢をわたくしは信ずる
それがたとえ蟻の涙ほどのちいささであっても
それがあるかぎりきみはあるとき
たちあがることができる
世界はきみが荒れすさんでいるときでも きみを信じている
(了)
*追記:
映画作品へのレビューは、以下のFilmarksに投稿しているのでご興味ある方は参照いただきたい。(noteは本名だがそちらではハンドルネームによる)
以下も有料記事だが、朝日デジタルの関連記事をリンクしておく。
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