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成田悠輔の老人の集団○○発言に関して思うこと(雑記)

既に炎上し国際なメディアでもその言説が伝わっている、唯一の処方箋は、集団○○であるということに対してさっとエッセー的にまずは思っていることを書いてみようと思う。他にも事例とかをあげて書きたいとも思っているので、この件で動きがあれば書く事にする。

まず、あの言説を聞いて感じた事は、実際に思っても言っては行けないのではという事である。成田氏の著作でもある22世紀の民主主義に言ってはいけない事は、大概正しいというような帯があったような記憶もある。「これは言ってはいけない事だから正しいのか?」受け止め方にもよるのか?ただ、駄目だ。と、言っても始まらないとも思う。

「基本的人権」や「生存権」など反対する理由は色々と出てくる。私も、それを言うことは自分にも返ってくることを受け入れる必要があるからこそ言い出すことが出来ない。私が老人になった時に不要だから処分しますと言われても悲しいものである。

さて成田氏がなぜこのような言説を言うのかを私は感じてしまった。22世紀の民主主義に、彼が毎週、政治家と打ち合わせをしてうんざりだという件がある。またNewsPicsでも同じような発言をしていた。ここからは私の推測も入るが、既得権益を持っている政治家や企業のマネージメント層と逢って話した結果にとてつもない絶望感を味わったのではないかと推察する。能力は無いのに権力はある。そういった人達をどうにかするにはということを考えたのでは無いだろうか。

22世紀の民主主義で成田氏は、既に民主主義は故障していると喝破している。また、若者が選挙に行くことでは何も変わらないことも数字として提示している。変えるのであれば何らかの革命的な変化が必要であるとも本書にはある。「老人達の集団○○」という言葉をメディアから伝えることによる意識改革がどこまで出来るかの実験をしている様にも捉えることが出来る。

成田氏は、メディアを通しての意識に対する実験を試みているのではないかと思う。彼が考えているのは、現在の故障した民主主義が次の形を取るためには、今の選挙や政治家といった既存の仕組みが「異常」であると意識させたいのではないだろうか。ITを使ったツールなど、まだまだ変えられることが増えているにも関わらず政治の世界では変化が少ない。

国の舵取りは政治家が行い、それは選挙で決める。これまでは普通だったけれど、それも限界がきているのかもしれない。

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