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新型コロナウイルス騒動から見るマクロとミクロ その86 ~教育現場への変化の期待~

2011年の東日本大震災によって色んな影響があり、既に9年が経っている。まだ昔話には出来ない人もいるだろうが、東京では既に過去の話に感じてしまっている。被害が大きかった地域では修学旅行に行けなかったりなど、そういった記憶が残るのだと思っている。幸いなのかそういったイベントのキャンセルは特に学生時代に経験していないことから、新型コロナウイルスの影響が今後どのような影響を与えるのかは分からない。

しかしながら、教育現場における公平性的なものが新型コロナウイルスの影響により変わってきているように感じられる。今の教師がオンライン授業を実施してもこれまでと同じ様な感触を得ることが出来ないことは間違いない。使用するアプリケーションによっては双方向の反応を随時に見れるわけでもなく、もし10人以上を相手するのであれば画面上で確認していくことも難しいだろう。授業をしながら、様々な機能を駆使して対応することも容易ではないことからも、即導入とはいかないと考えてしまう。これまでと同じ様に同じ教室で授業をする形式そのものが過去のものとなってくると考えるべきではないだろうか。

少し違った視点ではあるのだが、オーストラリアに留学していた時に、学生の制服にいくつかのバリエーションがあり、日本のように画一的な制服では無かった。日本もこれからはオーストラリアの制服のように教育の選択があってもいいと思われる。今回の新型コロナウイルスによってより感じさせているのではないかと思う。留学経験でもう一つ日本での違和感は大学という機関が、高校を出て入る最高学府である位置づけであり、大体18歳から20台前半が多くを占めるということである。

大学のあるべき姿とは学びたい時にいつでも行けるべきだと思うのだ。私の大学院の授業も多くが夕方からであり、それは仕事の後に大学院の授業を受けに来ているからである。日本の場合、社会人向けという違った括りになってしまっている。高度成長期以降に作られた義務教育から高校・大学を出て社会人になるという画一的な流れを令和の時代は変化させていくべきではないだろうか。知識を得るために社会人でも大学や大学院で学位を取ることも必要になるだろうし、通信で広く行う授業を受ける高校生がいてもいいと思う。

時代にあった広げ方をしていかないといけない中で、過去にしがみついていてもなんにもならないと思われる。新型コロナウイルスの影響によって教育にも変化が来て欲しい。

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