見出し画像

記録 10月2日・第一報

父が入院した。

現段階のことを記録しておこうと思う。


10月2日土曜の夕方、母から着信とメールが来ていた。気がついたのは夜ももう22時くらい。
メールは要約すると、父が入院した、連絡ください、と。

ちょっと面倒なひと仕事をしたあとだったので、正直、またなんかいろいろ感情的に聞かされるのは煩わしく。
まずは妹に聞くことにした。

23時すぎ、妹と電話。
思ったもみなかった言葉を聞く。

「転移性脳腫瘍」「この2週間が正念場」

5日前に、私が送ったテラヘルツ鉱石やシカクマメを受け取った、使ってみるよという声を聞いたばかり。
最近認知っぽいとか具合いまいちとは聞いていたけど、その時の声はまあまあ張りがあり、しんどそうな感じはなかった。

急すぎて、思考がついていかない。
この前検診も行ったばっかだったよね?なんで見つかんなかったの??

妹は淡々と、脳は急に症状が出るらしいよ、とか、2週間乗り切ってももう治療どうこうできないから、みたいな言葉を連ねる。
だから姉もちょっと仕事とか予定あけといて、って。
え?いきなりそういう段階なの??

電話を切って。
数人の近しい人に、LINEやメールでいまの話をしながら、ぽろぽろ涙がこぼれた。

思い返せば8年前。9年か?
脳梗塞で倒れたのが最初。
そこから、大動脈瘤に肺ガンと、続々と病気が発覚。
あれこれ治療や良いと言われるものを取り入れたりしながら、ここまで来た。

ここ2、3年は、抗がん剤の副作用で体力が落ちてはいたけど小康状態を保っていたから、いつかは、と思いながらこういう形で変化が訪れるとは思っていなかった。
(調べたら、肺がんからの脳腫瘍は多いパターンらしいけど知らなかったし)

この2年、コロナで会えていなかったこともデカい。
私は行っても良かったけど、母が嫌がってたから帰省はしていなかった。
とはいえ、認知始まった?みたいな話もあったから、寒くなる前に一度行こうかなーと思っていた矢先のこの出来事。
(今となっては、認知っぽいのは脳腫瘍の前触れだったのかという気もするけど)

人に説明しようとして、2週間とか文字を打つたび視界がぼやける。
ついに来たか、という気持ちと
そんなバカな、という気持ちが半々。
そして悲しい。寂しい。怖い。

「死」そのものがこわい、ということもあるけれど、

理解者を失う。そのことが、いちばん怖い。

私にとって父は、母から守ってくれる人で、私を理解してくれる人。
その人が、いなくなるかもしれない恐怖。

喪失の経験は初めてではない。とても大切な人を何人も亡くした。
けれど、同じ大切な人でも、「理解者」という点においては父はとても大きな存在なのだ。

私を置いていかないで。

子どものように、そう、突っ伏して泣いた。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?