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『家族の事件』を考える       ―『家族だから』から『だから家族』へ

1,二つの「家族の事件」
「家族の事件」が続いている。有名な歌舞伎役者の親子が死を選んだ。生き残った息子は自殺ほう助の罪に問われている。札幌では父、母、娘が逮捕された。娘は子どもの頃から生きづらさを抱えていた。父親は面倒見の良い精神科医で地域の人々を支えてきた。どちらの家族も人との関わりに恵まれていたように見える。
マスコミは、有名人の家庭だったこと、あるいは事件が猟奇的だったことをしきりに報道しているが、私は両事件とも当事者が「家族全員」だったことが気になった。トラブルが起こった時「身内で何とかしよう」とするのは自然なことだ。しかし「家族が閉鎖的空間」となり、他からの助けが入らないまま頑張り続け「抱え込んだ」としたらそれは問題だ。両事件は、今日「家族」が置かれた現実を表出させたと思う。
「家族がまるごと孤立している」。それは珍しいことではない。6月には6歳の男児が殺され草むらのスーツケースから見つかり、母親を含む家族4人が逮捕された。なぜ、そうなるのか。個々人に問題があったと思う一方で社会全体が「自己責任」「他人に迷惑をかけてはいけない」「身内の責任」と言い続けてきたことにも要因があるように思う。社会は当然のようにそれを求めてきたが、結果「助けて」と言えない状態に追いやったのではないか。このままでは「家族の事件」は今後も起こる。
今回の事件のみならず、「引きこもり」、「8050」、「ヤングケアラー」など、「抱え込む家族の現実」がある。いや、正確にいうならば「抱え込むしかない社会の現実」がある。

2,「身内に頼りたい」
「60歳以上の単身者が何かあった場合誰に頼るか」という国際調査がある。(『高齢者の生活と意識―第8回国際比較調査結果報告書』2016年)。日本、米国、独、スエーデンを比較したものであるが、どの国も「別居の家族」が一番に挙げられている。日本67%、米国56%、独63%、スエーデン58%。しかし、「友人」となると日本21%、米国48%、独46%、スエーデン49%であり日本は極端に下がる。さらに「近所の人」となると日本は16%まで落ち、他国では30‐45%を維持している。日本は「身内に頼る」意識が強い一方で「友人」や「近所の人」には「頼らない」傾向がある。


(『高齢者の生活と意識―第8回国際比較調査結果報告書』2016年)

現在の単身世帯率は約4割、男性の生涯未婚率は約3割に近づいている。気持ち的には「身内に頼りたい」が実際には「家族がいない」人が増えており、意識と現実のギャップは開いていくばかりだ。
ただ、先の事件は単身世帯、つまり「頼りたくとも頼られる家族がいなかった」ということではない。そこには「家族がいた」。家族だけで抱え込み、孤立する中で事件は起こったのだ。
「身内に頼りたい」という意識は「60歳以上の単身者」(先の調査)に限ったことではないが、それは自然な感情というよりは「自己責任論」の延長にある帰結と言える。「自己責任」自体は無論大事だが、それだけを強調することで「社会の無責任」が肯定される。「自己責任論」や「身内の責任論」が「助けない理由」となった。「身内に頼る」は家族愛のことばにではない。「助けて」と言えない社会において「家族」という「幻想」にしがみつかざるを得ない「現実のことば」なのだ。
あれらの家族は、誰にも相談できず事件を起こしたのではないか。「有名人だったから相談しにくかった」。「他人を助けてきた立場だったから相談しづらかった」。そうかも知れない。個々の事情を知るすべはないし、被害者もおられる。すべてを社会的要因に帰するわけにもいかない。
しかし、これら「家族の事件」を機に、私たちは「日本社会」、「身内の責任」、「家族の在り方」などを今一度考える必要があると思う。

3,抱樸の家族まるごと支援
 2010年あたりから「子どもの貧困」が問題になり、全国で「子ども食堂」を創る動きへが広がった。抱樸では2013年に「子ども家族まるごと支援」をはじめた。「子どもの貧困率」は、「等価可処分所得」から算出されている。つまり、世帯の所得を元に計算されているのだ。だから世帯の所得を上げないと子どもの貧困率は改善しない。だから「家族まるごと支援」となったのだ。
中でも力を入れたのが「訪問型学習支援」。学校にも行けない、子ども食堂にも来ない、そんな子どもの家庭をスタッフが訪問し学習支援を行う。多くの家族が複合的な課題を抱えいた。また、その親も子ども時代に育てられていないという「世代を超えた課題」が浮き彫りとなった。さらに、ほとんどが「家族まるごと孤立状態」であった。
「親が悪い」。多くの人はそういう。抱樸のスタッフさえ当初はそう思った。しかし、その親も子ども時代から学校や社会との接点が乏しく、偏った人間関係の中で生きていた。世間が期待する「親なんだから」という言葉の意味も分からぬまま戸惑うしかなかった。教えてくれる人もおらず、家族は孤立を深めていた。抱樸のスタッフは、そんな家庭を訪問し、学習支援と共に料理など家事全般、子育てに関すること、社会的な手続きなどを手伝う。抱樸はそれを「社会的相続の創造」と呼ぶ。
孤立を深めた背景に「親が悪い」「身内の責任」「家族だったらやるべき」という「身内の責任論」があった。「身内の責任」を問うことで「助けないこと」が肯定された。当然、課題のある親もいる。だからと言って「あの親が悪い」と言うだけでは何も変わらない。放置し、虐待となって初めて「社会的養護」の手立てがとられ親叩きが始まる。それでは遅いのだ。
「まずは身内で」は、子育てに限らず、介護や看病などあらゆる「ケア」の場面で言われてきた。ヤングケアラーが話題となっている。小学生が深夜まで親の介護をする。「それは問題だ」という人もいれば「子どもが親の面倒を見るのは当然だ」という人もいる。8050にしても「80歳になっても親は親だから」といってしまう。ケアを「家庭内」に押し込み、やれ「嫁の仕事だ」「妻の仕事だ」と差別をした結果、「ケア」は社会化されず、家庭内に留められ続けている。介護など一部が「社会化」したが、「家庭の閉鎖性」は「ケアの閉鎖性」として存在し続けている。今日「ケアの倫理」が問われているのはこのためだ。

4,「こども家庭庁」発足
こども家庭庁がスタートした。「異次元の子育て支援」が始まるという。何が「異次元」かはさておき、それはそれで良いと思う。そもそもこの国の家族関係における社会保障支出はGDP比で1.36%(2011年)。英3.78%、仏2.85%、独2.11%に比べると相当低い。ちなみに米0.72%だが、これを手本にはできない。
 一方で「こども庁」として議論されてきたものが終盤になって「こども家庭庁」になったことは気になる。「子どもは家庭で育つ」という考えが強く反映された結果だと言われている。しかし、私たちが出会ってきた多くの子ども若者は「そんな考え」とは無縁の現実を生きてきた。親や家庭に限定せず「こどもはみんなで育てる」でよかったと思う。つまり「こども庁」でよかったのだ。
現在、子どもの虐待件数は年間20万件を超え、さらに増加し続けている。この背景には「子どもは親の所有物」という家族観がある。親自身がそう考えていることも問題だが、この新しい役所の名称にみられるように「子育ては家庭(親)の責任」という意識が強く社会にある分、「家庭だけで背負う」ことにならないか心配だ。この名前の新省庁が出来ることで「家庭に対する過度の期待」を高め、社会の無責任性を高めるという皮肉な結果に終わらぬことを祈る。
子育てに限らず、先述の通り「ケアは身内の責任」としてきた日本社会において、介護や障害のある家族のケア、看病、夫婦の問題、そして子どものトラブルも含め「ケアが社会化される」ことは難しかった。身内で出来る人はそれでいいかも知れないが、それが「常識・当たり前」と言われると出来ない人、家庭はどうするのか。「身内で解決」は必ずしも「常識」ではない。それを「当然とする」と「他人は手を出さない方がいい」が「道徳」となり、今回のような「手遅れの事態」となりかねない。
虐待死、無理心中など最悪の事態が後を絶たない。無理心中は、親の都合で子どもを道連れにすることだ。子どもが「所有物」として扱われた結果であり、同時に「身内の責任」を強調し過ぎた結果だとも言える。そもそも子どもは別人格であり一人の人間だ。親の自殺をどう止めるかが課題だが、同時に子どもが親に巻き込まれることを避けるために社会はどうあるべきか考えたい。
 名は体を表すというが「こども庁」ならば必ずしも「家庭が前提」ではなかった。身内に固守せず、みんなで子どもを育てればよいのだ。その枠組みがまずは前提として成立する時、「身内の責任」は健全に問われることになる。それが「あるべき順番」というものだ。
 
4,「家族機能の社会化」―なんちゃって家族
単身化が進み、生涯未婚率も上昇する時代、「身内の責任」では対応できないのが現実になりつつある。これまで私たちは「家族だからやるべきだ」と言ってきた。しかし、この「家族だから」が通用しない時代になりつつあるのだ。
 抱樸がこれまで出会った多くが「家族がいない」、「すでに縁が切れている」人々だった。最も象徴的だったのが最期の場面。危篤になっても誰も来ない。連絡がついても「もう関われない」と返事が戻ってきた。そして葬儀をする人もいなかった。「家族だから葬式をやるべき」は通用しなかったのだ。同様に「親だから弁当を作るべき」、「親だから看病すべき」など、「家族だから」はあらゆる面において語られてきた。しかし「家族だから」はもはや常識でも「殺し文句」でもない。
そんな現実と向き合う中で抱樸は「家族」を「機能」で捉えることにした。つまり、家族の機能を家族以外の赤の他人が担い合うのだ。その「機能」を担った人が家族、「なんちゃって家族」となる。例えば葬式は家族機能の最たるものである。家族がいない、あるいは家族が担わないと葬式が出せない。動物の中で人だけが弔いをする。弔い無き死は「非人間的な死」と言わざる得ない。葬式が無いことは人として寂しいことであると同時に実は社会問題にもなっている。弔う人の不在が大家の「部屋を貸せない理由」となっているのだ。「住宅確保要配慮者問題」を象徴するのが「身寄りのいない単身高齢者の住宅確保問題」である。
抱樸では子どもまるごと支援とほぼ同時に「地域互助会」を発足させた。互助会では、様々な支え合いの仕組みや交流の企画と共に「互助会葬」がなされてきた。身内が来なくても互助会が葬式を出してくれる。そして葬式という機能を担った人、つまり「葬式に出た人を家族」とする。「家族だから葬式を出す」から「葬式をしたのだから家族になる」への転換を図ったのだ。
「家族だからお弁当を作る」のではない。「お弁当を作った人を家族と言う」。結果、お母さんが30人いてもいいし、お父さんが40人いてもいい。このような「家族機能の社会化」は、今後も日本社会や地域共生社会を模索する上で重要なポイントとなる。
キリスト教会は、メンバーのことを「兄弟姉妹」や「神の家族」と称してきた。所詮、教会員(キリスト者・信者)に限定して使ってきたので「閉鎖的な家族」に過ぎなかったが、赤の他人が家族になるということは先駆けていたように思う。ちなみに東八幡キリスト教会は、「キリスト者にならずともすべての人は既に救われており神の家族である」と宣言している。イエスは十字架で死ぬ直前、愛弟子を自分の母親に紹介し「ごらんなさい。これはあなたの母です」(ヨハネ福音書19章)と言い残した。弟子はその日からイエスの母を自分の母としたという。赤の他人が家族になる。これが聖書の伝える福音(良い知らせ)だとすると、それは今日の社会においてどのような働きを担えるだろうか。
「家族だから」から「だから家族」への転換は、今日の社会にとって大きなテーマであるし、希望のまちは、それを体現する大いなる実験となる。「家族の事件」がこれ以上続くことのないためにも「家族機能の社会化」は、それぞれの地域において考えるべき課題だと思う。
「なんちゃって家族」。少々、いや、大分いいかげんなネーミングだ。しかし、「家族」という重々しかったものを少々いい加減な関係に置きなしていくことが重要だと思う。

終わり


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