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【viva不登校】「無いもの探しではなく在るもの磨き」と改めて想う

私は仕事柄、たくさんの社会人の人に逢う。仕事は、かっこよく言えば、「その人やその人の属する組織の可能性を解放するお手伝い」という人事系のコンサルタントである。

その仕事の中で、私が相手に定点観測として訊くことがある。

「○○さんの強みは何ですか?」

このセリフ、さらりと言葉をつけたさずに、正面切って、どやるくらいの感じで訊いてみる。そうすると、大概の人は即答しない。

「強みですかぁ・・・・」

そりゃそうだろう。初めて逢った目の前の男に「自分の強み(内面)」を曝け出す人は少ない。ただし、ここでポイントだと思うのは、「即答できない」のではなく「即答しない」のである。(←ここ、私の仮説です)

なぜ、(社会人の)人は「自分の強みを即答しない」のか?

逆の例を言えば、「自分の弱み」に対しては、多くの人がよどみなく、スラスラと言える。これは間違いなく。そうである。ではなぜなのか?

そこには、ここまでその人の人生の中で、脈々と経験してきた「無いもの探し」の歴史があるのだと、私は確信している。もう少し言葉を付け足せば、「無いもの探しへの評価」の歴史といっても良い。

この歴史は紐解けば、おそらく幼少期まで遡るだろう。

例えば、小学校の時にテスト(科目はなんでも良い)で、40点を取ったとする。そうすると、「40点、すごいね!」とビッグハグしてくれる親御さん、正直に言えば少ないと思われる。

「40点なんて半分以下じゃない。どこを間違ったの?」

足りないところへの確認。よくあるものだ。そしてそれがちょっとしたケアレスミスであれば「あなたはそういったケアレスミスがあるところが惜しいのよね」「普段はできているのだから」、こんな具合である。つまり「100点に足りない(無い)」ものにフォーカスしている。

もう一度、言おう。これは仮説だ。私はそうではない!とここまでを見てプンプンしている方がいたら、どうぞそのプンプンは収めていただき、このnoteを閉じていただきたい。

前述の親御さんも悪意があって足りない「60点の理由」を訊いているわけではない。愛する我が子を想い、次は100点を取ってさらなる達成感を味わってほしいと想うからだと思う。

しかしながら、この例は一例ではあるが、シンプルなようでこのコミュニケーションサイクルの中で、親から、先生から、部活動の顧問から、ゼミの教授から、会社の先輩、上司から、生きてきたのでは無いだろうか。そうやって生きてきた人は「足りない部分を人は見てくる=自分もそこを自覚しなければならない」という思考サイクルが定常化する。

だから、最初の質問に戻るが、

そうやって育ってきた人は「強み(足りている)」ところよりも「弱み(足りない)」を見ることに長けている。

ぐいっと、半ば無理矢理の一本背負い的に言うが、結論、0点のテストであっても

「0点、最高じゃないか、上に伸びるしかないし、何よりこの結果に至るまで自分がやり切ったことは何?(在るもの)」

くらい言える、ぶっ飛んだ大人であり、親で居たいと、自分はそう思っている。

viva不登校。




ここまでお読みくださりありがとうございます。基本的に「褒められ」「乗せられ」「おだてられ」ぐんぐん伸びる私です。皆さんのリアクションに勇気百倍です。重ねてありがとうございます。