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映画とわたしと渋谷アップリンクと①


渋谷アップリンクが閉館しました。
こちらの記事より、紹介させていただきます。↓

https://natalie.mu/eiga/news/425520


本来なら寂しがるところですが、いまはホッとしています。

もちろん、これですべて解決したとも言えないのですが。

アップリンクにおける従業員へのパワハラ問題の発覚......。
こんなにも悲しくて悔しくてやりきれないことが起こらなければ
閉館してからも変わらず大好きな場所になる筈でした。

四国から東京に住めたことで、多くの作品が観れた喜び。
上映後のトークイベントの盛り上がり。
アップリンクを通じて映画仲間が増えたこと。
じっさいには楽しかった思い出ばかりです。
だからこそ、尚更に怒りが消えないのです。

これについて触れる前に、自分語りをさせていただきます。

わたしがどれだけ映画が好きで、映画と人生を共にしてきたか。
そこから始めないと、今回の件をどうしても許せない気持ちを
伝えきれない気がするからです。

※とはいえ長文すぎるので
飛ばして➁から読んでくださっても大丈夫です。

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【 中学生まで 】 

わたしにとっての映画は、生まれてから15年間までは
「テレビで観るもの」でした。

出身は四国の愛媛県。海と山に挟まれた小さな村で
スーパーと雑貨屋しかなく、CD店も書店も飲食店も無い。
映画館もバスで1時間ほど先にある宇和島市のみでした。

冒頭の画像は、バスから撮った宇和島へ向かうときの風景です↓ 

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延々と1車線の海岸線の道路を走り続け、いくつかの村を通りながら
車が走っていきます。車同士、すれ違うのに苦労する狭い道もあります。

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この距離が、わたし個人にとっての「映画館」への難関でした。

家が貧しかったからです。
借金がないだけが救いという生活ギリギリの日々において
バスの往復代と映画のチケット料金は多額でした。
それを幼少時から知っている身としては「映画を観に行きたい」
と、親に言うことはできませんでした。
なにしろ小学生のときから、中卒で働くと決めていたほどですから。
優秀な兄は、高校、大学へと進学するべきで、わたしのぶんの学費は
無理とわかっていたし、勉強が嫌いだし、イジメをうけていたので......。
学校に行くより働きたいくらいでした。

そして、この兄が、わたしを映画好きにした人物です。

4つ年上の兄は成績優秀で、徹夜で勉強するほど真面目で努力家なのに
エンターテイメント全般にも長けていて、漫画もアニメもそして映画も
やたら詳しかったです。
そんな兄を追いかけながら、わたしはロボットアニメや特撮を観て
少年漫画を読み、更に兄は少女漫画にまで名作をみつけていたので
そちらにもはまりました。

幼い小学生くらいの頃は、夜の11時まで起きていられなかったです。
それでテレビ放映の映画を観てる途中で、眠気の限界がきて寝てしまって
翌朝に兄に「あれ、最後はどうなった?」と、聞くと
「半分は死んで、もう半分は生き残った」と、答えてくれました。
この作品を、大人になってから最後まで観れたときは感動しました。

やがて夜中まで起きていられるようになったとき、殺人事件で息子を失い
父親の人生が一変する映画をテレビで観ました。
恐いというより、かわいそうと思いながら観た後で......兄が言いました。
「これがきっかけで法律が変わったんだぞ」と。
※映画がきっかけで法律がつくられたと、本当にWikipediaに載ってます。

そして、結局は定番ものなんですけど「ルパン三世 カリオストロの城」を
テレビで初めて観たときに、ラストの清々しさに多幸感があふれてきて......
その瞬間に兄が「カリオストロの城は良いだろ?」と、言ってきて
「すっごく良い!」と、返事をしたとき、わたしの映画好きは本格的に
始まったような気がします。

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【高校から】

そうしてわたしを導いてくれた兄は、18歳で急死しました。

兄を亡くしていることは、よくネット上でも実生活でも言っていますが
その壮絶さを打ち明けるのは、今回が初めてです。
映画なら、ジャンルはサスペンスかもしれないほどです。

兄は大阪の大学を受験して落ちて、浪人を決意して大阪に移り住み
新聞配達をしながら予備校に通っていた夏に、新聞配達先のマンションの
7階から転落死しました。
死因は不明です。 遺書は無く、でも足を踏み外して落ちる場所ではない。
そのまま捜査はされず未解決で終わりました。
大阪での4ヶ月くらいの生活のなかで何があったのか......わかりません。
新聞配達と予備校とが辛くて自殺したのかもしれない、事故かもしれない。
物騒な街だから、何かに巻き込まれて殺されたのかもしれない。
たまに兄が亡くなったことを人に話すと「どうして?」と、聞かれますが
わたしどころか誰も知りません。
創作の世界なら事件を追う誰かが登場するのかもしれませんが
現実にはそんな人はいませんでした。 そこには絶望しかなかったです。

この出来事が、わたしの人生を大きく変えました。
中三の14歳、多感な思春期に、大好きだった存在を衝撃的なカタチで失い
身体の半分が吹き飛んだようなものでした。
いまでも、兄の命日は一年でいちばん悲しい日です。
関係性が綺麗な時期の思い出だけが残り、美化されたせいでもあります。

そして中三のときだったことは、わたしの進学先にも影響を与えました。

中卒になるよりは定時制 ( 通信制 )の高校で、働きながら学校に4年間行く。
そう決めたのですが、なにしろ両親は自慢だった息子を失い、悲しんで......
特に母は壊れかけていて、わたしを異常なほど溺愛するようになりました。
わたしはわたしで親の元を離れるのは不安になり、定時制先は愛媛県内で
探して、寮のある工場に住んで働きながら、高校に通うことになりました。

そこは港町の小さな市でしたが、映画館がひとつだけありました。

ここでようやく、初めて、わたしは映画館で映画を観れたのです。
初めて観れた映画は、当時の人気アイドルの主演映画でした。
ストーリーがメチャクチャでした(笑)

この頃の大きな転機は、ずっと怖がりでホラーどころか横溝正史作品も
観れなかったわたしが、ゾンビ映画を観れたことがきっかけで、ホラーの
世界観に夢中になれたことです。
漫画家になりたいという夢を持ち始めた時期でもあったので、作品を冷静に
客観的に、観れるようになってきた変化でもありました。

兄が生前に、わたしに言った言葉があります。

「エクシスト2には芸術性がある」と......。

この言葉が、わたしとホラー映画を永遠につなげてくれています。

ホラーにおける芸術性というものを追求していくことが
わたしの人生に追加されました。


ちなみに、わたしが在学中に市内の映画館は閉館して、寮生活だから
テレビが観れず、仕事の勤務時間の都合で、遠くの映画館にも行けず。
また映画が離れていきました。

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【その後】

19歳のときに、運命的にアニメや漫画が好きな相手と出会えました。
それから仲間ができて、同人誌を作ったりコミケに参加するようになって
そのとき最も親友になれたNちゃんが映画好きで、再び映画を観に行ったり
彼女の自宅に遊びにいってDVDを観たりするようになりました。

Nちゃんは小説家志望でわたしは漫画家志望で、共に励まし合い、
声優志望のYちゃんが上京したり、そんな青春時代において......。

今度は父の急死で人生が一転しました。

兄も壮絶な急死でしたが、父もまた壮絶な急死でした。
ここまでくるとホラーです。

わたしは宇和島市で独り暮らしをしながら、生産工場で働いていました。
3月なのに雪の降る異様な日に、肺を患っている父が退院することになり
荷物持ちを手伝ってほしいと母から連絡がきて、病院に行きました。

そして父は、実家に戻った途端に容態が急変して玄関先で倒れて
そのまま亡くなってしまいました。
わたしが支えている腕の中で、次第に冷たくなっていきました。

人が死んでいくのを見てしまった恐怖と、救えなかった自責の念......。
退院した病院に再び運び込まれ、霊安室に置かれた父のそばで
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」と
延々と泣き叫び、看護師さんに支えられながら遺体を運ぶ車まで
連れていかれて
「わたしがお父さんを死なせたんです!」と、泣きわめきました。

この事件から、わたしはPTSDになり、精神科で心身症 (ノイローゼ) と
診断されました。

カウンセラーを受ける、医者と相性が合わず更に傷つけられる、
情緒不安定になる、眠剤がないと眠れない、食事ができない、
フラッシュバックが起こる、友人と交流する余裕がなくなり
距離を置き孤独になり、ネット廃人になっていく......。

周囲が「家に帰りたかったのよ」「娘の腕の中で死ねて幸せよ」と
言ってくれても、そのときのショックはやわらぎませんでした。


この話しをするのは、これもまた映画と関係があるからです。

わたしは映画にやたら詳しいです。
それについては、誰もが驚きます。

PTSDで引きこもりになったときに、自宅で映画ばかり観ていたからです。
レンタルすることもありましたが、ネット配信のほうでたくさん観ました。
馬鹿みたいに時間だけがあったのです。

もう死んでしまおうと決めて、身辺整理に何ヶ月もかけれるほどに。


死ぬには春がいいとおもいました。

兄が夏で暑くて、父が冬で寒かったからです。
火葬場まで走る山道の桜が満開の時期に死にたいと計画を立てました。

母が独りで取り残されることを、考える余裕もなく
ただ、ただ、もう、疲れていました。
死別を背負うことに......。


結局、死ぬタイミングを逃して、いまもまだ生きてます。


そして東京へと引っ越していく運命へと転がっていきました。


長文失礼。

➁から、渋谷アップリンクと出会ったエピソードを話します。


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