「死ぬくらいなら辞めればいいのに」とかいう強者の理論


「死ぬくらいなら辞めればいいのに」


過労自殺やいじめ自殺のニュースが出るたびに
一定の人からこういった声がきこえる。


実は私も昔は同じように思っていた。

なんで辞めないの?
死ぬくらいしんどいなら辞めれば良くない??


だけど、こう考える人が多いという社会自体が、この国やその人を殺してるってことに、自分が潰れて初めて気づきました。


辞める、とか、他の道を行くって選択肢が見えるのは、余裕があるからなんです


つまりこれは、強者の理論であるといえるのよね。


本当に余裕がない人は、このしんどすぎる毎日を続けることしか見えなくなる


辞めればいい、なんで少し考えたらわかる程度の判断力すら失うほど追い詰められてるんです


けどきっとこれは当事者にならないとわからない感覚だと思う

とか言いつつわたしは潰れたとき、死までは考えなかったけど、
少なくとも「逃げる・やめる推奨派」の私がその選択肢を見失うほどには追い詰められてた。

だから、死を選んでしまう人の気持ちがその時初めて分かったんだよね


死ぬって選択肢しか見えないほど追い込まれてるということは、周りは気づけないし、実は本人すら気づけない。


そこで立ち止まれた人だけがこの怖さを知ってるんです。


毎朝どこかで起きる人身事故、
そこで自殺した方のどれくらいが前もって死を計画していたんだろう


きっと会社に向かう道中で衝動的に足を踏み出してしまった人が多いんじゃないかと思う


極限まで追い詰められた人間は、その日その時その瞬間に、死しか見えなくなる時があるんだと思うのよ


けど「強者」はそれに気づけずに、

死ぬなら辞めればいい。
弱い人間だ。
どうして助けを求めなかったのか。

こんな言葉を簡単に言う。


怖いなぁ、と思いますこの生存者バイアス。


何が大事かって、「自分の見えてない部分に思いを馳せる」ことができるかどうか。


自殺するなんて弱いなぁ
なんで自殺なんてしたのか
なんて言葉を好き勝手言うことは誰でもできる。


でもそうじゃなくて、
きっと自殺するしかないほど思い詰めてしまっていたんだ。
この死を生んだ社会背景ってどんなだろう
ってその死の裏側に思いを馳せることができない限り、この社会は人間を殺しづけるよ


自分の今まで築いた当たり前だけが世界の全てだと思っちゃダメ。


自分の経験や価値観だけを評価軸にして
他人の行動を評価するのは非常に危険
だとおもいます


そうした社会の強者の「当たり前」が世間全体の当たり前のように捉えられて、
その作られた「当たり前」から外れる人は理解されないまま弱虫として扱われる。


だからね、その人の気持ちが分からなくたっていいけど、その人の思考や価値観を推し量って認める必要がある。


これって自殺の話だけじゃなくて何事にも当てはまるのよ


あるニュースがあると、メディアが結果だけをデカデカと報道して、その表面的な情報でみんなあれこれ賛否両論する


その結果が生まれる裏側に何があったのか、
そこに目を向けて考えられる人がどれだけ少ないか。


知識がなくてもいい。
ただ自分の当たり前でその表面的な報道を評価してはだめだとおもう。

私たちがすべきことはただ一つ。
考えるんです。
どうしてそうなったかの背景を、自分なりに考える。


その姿勢、めちゃくちゃ大切だと思います


これからの多様性の時代、これを意識していかないと絶対に多文化共生は起こり得ないと思う


見えないところに思いを馳せる
これができる人が増えれば、「死ぬくらいなら辞めればいいのに」なんてクソ理論でTwitterが埋まるなんてことなくなるとおもう


死ぬくらいなら辞めればいい、
それは間違いなく正論。 


だけど、正論は往々にして現実を知らない。
正論は往々にして傷を知らない強者から発せられる。

その正論からはみ出てしまう人に目を向けていきたいなと思ったって話。


ふと過労死のニュースを見て思いました、、


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?