クラウド化する世界
私のクラウドコンピューティング初体験は2008年だったと記憶しています。当時はカリフォルニア州に住んでおり、Amazonでよく本を買っていましたが、その本を売っているAmazonが提供するS3(ストレージサービス)に子供の写真をアップロードしたのが初体験でした。アメリカにあるデータセンターにアップロードした写真を、ヨーロッパにあるデータセンターに画面の簡単なマウス操作だけで移動できる体験は、私の人生を変えるほどの感動でした。
その当時私が実務で行っていたのは自社データセンターの2重化。北米の2拠点にデータセンターを分散配置するには大変な労力を伴います。しかも自社運用でしたので、停電の際の自家発電機の設置とその運用、その上で自家発電機を回し続けるために必要な、複数拠点からの燃料供給体制確保のための業者との交渉といった細かい実務に忙殺されていました。システムの安定運用のために必要なこのような実務ですが、そもそもこのような仕事は事業会社が取り組むべき課題なのか、という強い疑問を持っていました。
そのような時に出会ったのが、ニコラスGカーの著書「クラウド化する世界」でした。
彼は発電機が歩んで来た過去の歴史を、今後データセンターが歩むであろう未来になぞらえていました。電気というものは、昔は各企業が発電機を購入して自らが作り出していました。しかし、送電線を使って運ぶ事が出来る、どの企業も同じ電気が必要である、という電気の持つ特徴から、電力会社が各企業に代って発電を行い、各企業は必要な時に使った分だけ費用を払うビジネスモデルに変わって行った。そして各企業から大型の発電機は消えて行った。この電気のユーティリティー化の歴史的変遷を、データセンターも同じように歩むだろうと彼は主張していました。各企業からデータセンターは消え、クラウド化されたITサービスを、各企業は必要な時に使った分だけ費用を払うモデルへ移行すると言うのです。
この本を読んだ時には、夢のような未来が予言されているが本当に自分の仕事がこのように変化するのか半信半疑でした。それが、Amazonのサービスを自分で触ってみて、その予言は確信に変わりました。必ず世の中はこの本に書かれているような方向に進化する、という確信です。
思い起こせば、ITの進化の歴史にはいくつかの大きな潮目がありました。私が仕事を始めた1989年当時は「ホストコンピューター」が主流でした。1995年のWindows95の登場と小型サーバー性能の向上によって、「クライアントサーバー」の時代が来ました。その後インターネットの登場とブラウザーの普及によって「WEB」の時代が到来。次の時代は「クラウド」の時代である、と確信させてくれたのがこの本とAmazonの体験でした。
2008年当時のクラウドコンピューティングを巡る議論は、テクノロジーだけを見れば、「ネットワーク・コンピューティング」と従来言われていた処理形態と変わりがないため、サンマイクロシステムズやオラクルのCEOからは、今まであるものを単に言い換えただけに過ぎないという趣旨のネガティブな発言があり、そちらの見方が主流でした。またハードウェアを買わずに利用しただけ課金されるビジネスモデルもITサービスには数多く出ていましたので、何がクラウドなのか、そもそもクラウドは新しい概念なのか、と評価が揺れていた時代です。
当時GoogleとAmazonがクラウドコンピューティングを強く推進していましたが、私が感じる彼らの最大の功績は「テクノロジーの民主化」でした。当時サーバーを自社で買って、しかも冗長化のため複数のデータセンターにサーバーを配置し、データセンター間を結ぶネットワークを整備し、しかもそのネットワークも冗長化するような事が出来るのは一部の大企業だけでした。GoogleやAmazonは、初期費用なし、インターネットに繋がるパソコンとクレジットカードさえあれば、誰にでも使える汎用的なデータセンターサービスを提供したのです。
ニコラスGカーが予言していたITのユーティリティー化への道を最初に歩んだのは大企業ではなく、アイデアはあるが資金のない無数のスタートアップ企業でした。初期投資が不要、アイデアを短期間で実装出来て、うまく行けばあっという間にサービスがスケールアウト出来る。その逆でうまく行かなければサービスを停止してIT費用をゼロに出来る。しかもクラウドを陰で下支えしているのは「オープンソース」と呼ばれる利用料無料のソフトウェア群です。これらによって非常に安価な費用でサービス構築が出来るようになったのです。
クラウドサービスを使うよりも自社でサーバーを買った方が良い、という主張をする情報システム部門の方がいらっしゃいますが、サーバーの購入初期費用と5年間の運用費用の合計とクラウド利用の5年間の総費用を比較しても、それはフェアーな比較とは言えません。データセンターを自社で運用するためには、まずは施設面での初期投資と施設運営費、特殊な消火設備、24時間連続運転するための業務用空調設備、電力供給が停止した際の無停電電源装置と非常用自家発電設備、地震対策としての免震設備、部外者の侵入を防ぐための防犯設備などの設備費用と、データセンターを運用する上で必要な人件費や電気代など、実に多くの費用が必要なのです。クラウドコンピューティングの利用料にはこれらの費用が含まれているのです。多くの企業では、施設関連の費用は建物全体の費用として総務部門が一括して管理するため、そもそもデータセンターのコストが情報システムのコストとして認識されていない場合さえあります。流氷の水面から上だけを眺めて議論し、水面下の姿が見えなくなっていないか、注意してください。
それでも買った方が良いという方は考えてみて欲しい。サーバーを購入するということは基本的に5年間の減価償却モデルになろうかと思います。5年間全く進化せず日々劣化していくインフラを使い続けて行く事になります。データ量の増大を考えるとある程度のキャパシティの余裕を持たせることになり、1年目は過剰スペックであり、5年目は過少スペックとなります。クラウドの利点は、進化するテクノロジーにいつでも更新可能である点、キャパシティプランが柔軟である点、アプリケーションの重要度に応じてサーバーやストレージの品質を細かく上げ下げ出来る点です。お金の流れで見ると、サーバー購入モデルは巨額なキャッシュアウトが5年毎に起こりますし、5年分の前払いモデルです。一方クラウドは基本的に利用に応じた後払いモデル。利用するサービスにもよりますが課金単位は分課金や秒課金です。会社から帰る時に電気を消すように、サーバーを夜停止すればお金がかからないのです。
その上で事業会社として考えなければならないのは、そういった施設や機器の維持運用が自社の競争優位に必要不可欠な差別化要因となるのか、という点です。ITを事業としてGoogleやAmazonをライバルとみなす一部のネット企業を除き、ほとんどの事業会社にとってデータセンターの運用はノンコアで戦略的重要性が低い業務だと思います。そのような業務に社員の貴重なリソースを投入すべきではない、と私は考えます。
クラウド化する世界はテクノロジー進化における不可避な流れです。クラウドコンピューティング利用の是非を議論する時期は既に過ぎています。新しい潮流に逆らうことなく、自社の成長にいかに上手く活用すべきかを、すべての企業が考えるべきだと考えます。
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