「封印」 第十六章 災厄
エテューと連絡が取れない。携帯は繋がらない。エリは最後の水を一口、口に含んだ。アパートは隔離政策として、防護服に身を包んだ警察が囲んでいる。
「開けてくれ!」
玄関を誰かが叩いた。
「署の人間だ! 頼む! エテューの同僚だ! エリさんいるんだろ!」
エリは急いでドアを開けた。血まみれの警官が二人、転がり込んで来た。
「大丈夫ですか!?」
二人のうち、若い警官はひどく出血していた。すぐにその警官は目を閉じた。
「タオルを…」
年配の警官が銃を手に、指示を出した。エリはタオルと石鹸を慌てて持ち出した。
「エテューは?」
警官は首を振って、タオルで若い警官の首を押さえた。
「分からない。鍵、閉めたか?』
言われるがまま、玄関の鍵を閉める。警官が無線を取った。
「本部全滅」
その一言に、エリの心臓は一瞬、止まった。
「そんな…」
ひざまづくエリを、警官が振り返った。
「ここもすぐに出ないと…」
「あははは」
若い警官が身を起こした。笑っていたのはその若い警官だった。もう一人の警官と、エリの全身が強張った。明らかに普通じゃなかった。
「お前…」
警官の銃を持つ手と、髪を押さえて、笑顔を浮かべる口が、首に吸い込まれた。
「ああああああ!!!!」
警官が叫んだ。エリも悲鳴を上げた。それに笑い声が続いた。
年配の警官の口からこぼれ出るのが、悲鳴から薄い空気に変わった。
エリは動けなかった。
廊下から、たくさんの足音が響き渡った。
若い警官の目が、エリに向いた。
同時に、エリの背中の玄関が、揺れた。また、笑い声が聞こえた。大きく軋んだ。
エリは首を振って、立ち上がった。
「待って…」
エリを真似するように、大きな笑顔を浮かべて、二人の警官が立ち上がった。
*
邪悪が入り込む。幸福感が満ちる。一つになりたい。走り出す。救済したい。もう何も心配しなくていい。
笑顔で走り込んでくる感染者。
その額に、エテューの弾丸は撃ち込まれた。走りながら弾倉を入れ替え、再度背後を振り返る。感染者も非感染者も見分けがほとんどつかない。
「あそこだ!」
警官の一人が叫んだ。見えるのは、通りの先にある、塾。3階建て。プライベートで、窓が少なく、扉も小さい。
通りを抜ける。
車がものすごい勢いで塾の壁にぶつかった。それでも壁は壊れなかった。
「中クリアするぞ!」
兵士が叫んだ。エテューはその背後と、車の間で銃を構えた。
「行け!」
車から出てきた感染者の頭を撃ち抜く。
直後、真横を、何故か、偶然見た。
兵士達の合間を縫って、一人、感染者が飛び込んで来た。その腰を肩で押し上げて、地面に転がす。警官がそのこめかみを撃ち、弾倉を入れ替える。その間に、エテューと兵士は扉の前に転がり込む。
鍵はかかっていなかった。
ライフルを持つ兵士と部隊の人員に道を開ける。特殊部隊の人間が二人、兵士が三人、警官が二人。全部で七人。
「2階に」
エテューはドアノブを握った。兵士が頷いた。扉を引く。男達が中に入り、最後にエテューは扉を閉め、鍵をかけた。
「待ってください!」
女が扉に駆け込んできた。エテューは銃を向けた。女の後頭部に感染者の爪が立った。そして二人は扉にぶつかった。
ガラスが砕けた。同時に、背後でも銃声は聞こえた。
「登れ! 登れ!」
階段を駆け上がる足音。抉られる女の首。エテューは、女と感染者の頭を撃ち、階段に走った。
一瞬、鉄の扉が膨らんだ。
扉を、人体の波が破った。エテュー達は三階まで駆け上がった。
屋上に入り、扉を閉める。
塾の屋上は隣のアパートにつながっていた。
「飛べ!」
兵士が叫んだ。扉がひしゃげた。エテュー達は屋上から飛んだ。
*
シエラが港近くの基地まで戻ると、アシュラとレオンが一人の初老の男__代表秘書__を椅子に縛り付けていた。その前に、カメラが設置された。
「どうするつもりだ?」
ライリーは傷つき、軍服をかけた肩をすくめた。
「ライブ配信するので、よろしく」
「何がしたい」
ライリーは答え無かった。周囲の兵士達が帰還し、落ち着くのを見回した。それを代表秘書の視線が追う。
「あんたらに恨みを持ってる奴は大勢いてさ、抑えるの大変だよ」
ライリーの視線はシエラで止まった。シエラはナイフの刃を拭って、鞘に納めた。無意識の内に抜いていた。
それを見届けて、ライリーはカメラのスイッチを入れた。
「要求は三つです…一つ、南耀全域での開発中止」
アシュラ、とダムナグは指を弾いた。東威人の男がそそくさとパソコンを机に置いた。
「デトナイツ政府の南耀介入政策の廃止」
「その為に反乱を起こしたのか? 東威政府からは支援を受けているだろう」
ライリーは小さく社交的な笑顔を見せた。
「説明だけじゃ到底伝わらないことが南で起きてる」
一見落ち着いた視線は、緊張に満ちている事に代表秘書は気づいた。他の兵士達も同様に、武装したダムナグの護衛だけでなく、周囲にも常に警戒の注意を向けていた。
「何が起きているんだ?」
「あなたがそれを聞くとは滑稽だ。でも同時に、私も同じ問いを持つ。故に、最後の要求、ダムナグとデトナイツ政府共同実験事業のデータの全面開示」
「そんな事…」
「実現していただければ、こちらでお迎えしているダムナグの客人の解放、こちらが所持しているデトナイツ政府とダムナグ社に対する追求事案の破棄、そして武装放棄を行う」
ライリーが開くパソコンには、縛り上げられ、床に転がる、大勢のダムナグ職員が映る。
「お前…」
「あなたらには、好き放題されてましたから」
代表秘書は首を振った。
「お前の兵士から話は聞いた。その内容を私は全て知らなかった。だとしたら社長と政府の超高官でしか知らない話になる。お前の要求が通るとは思えない」
「こう見えて、結構急いでいるんですよ。時間がない」
「何の時間だ?」
ライリーは携帯を取り出した。
「聞いたらどうです? あなたの上司に」
携帯がその腰に投げ落とされた。レオンが秘書の縄を解いた。
「それか、ここで、全て白状してください」
*
ヴァサル社長の下に、南耀での事変の噂が届いたのは、反乱開始から3日経ってからだった。
「代表秘書、拉致されました」
護衛オブスターの囁きに、ヴァサルは首を傾げた。
「誰にだ?」
「南耀の反乱組織です。エサーグとか」
「…グランクを呼べ」
元公安の傭兵なら、その組織の事を知っているかもしれないと思ったが、グランクも顔を顰めただけだった。
「聞いたことありませんな」
ヴァサルはため息をついて、オブスターが見せるパソコンの映像を眺めた。
「で、要求は?」
「新薬の副作用の存在の認証と、新疫病との関連性を認めること、そして違法実験の情報開示…」
「なんの話だ?」
ヴァサルは笑って、差し出されたファイルを机に落とした。
「違法実験? 全て任意参加だろうが」
扉がノックされた。巨大な男が入ってきた。元軍人のシャガルだった。
「公安長官がお会いになりたい、と」
「バイエンか? 今か?」
「はい、どうしても、と」
部屋に入るなり、バイエンは二人きりなる事を要求した。ヴァサルはそれを拒否した。三人の殺しに慣れすぎた護衛を置いて、公安の長にはちょうど良いと思った。
バイエンはテレビをつけた。捕えられた代表秘書の顔が映っていた。それをバイエンは指す。
「この疫病、関係していますか?」
バイエンは否定した。笑うしかなかった。
「そんな訳、無いでしょ。あったらこっちももっと必死ですよ色々。一体そもそも、なんなんですかこの騒ぎは。南燿だけじゃなくて、バハイまで」
「まだ分かりませんが、エサーグの連中はダムナグ社との関連性を信じてます」
「誰なんです、あいつらは?」
「南耀の独立を願う組織です。指揮官はライリー。南燿軍の…」
「知っています。あの男。真面目な奴です」
シャガルがこれまた真面目に言った。バイエンは頷いた。
「これはバイオテロの可能性もあります。いずれにせよ、真相の解明と解決策の発見と実行にはダムナグ社さんの協力が必要です」
ヴァサルは首を振った。
「情報開示なんて事はできませんよ」
「南耀全体が滅ぶかもしれませんよ。競合相手がどうのこうの言っている場合ですか?」
「南耀はいつも生き残ってきた。滅ぶなんてあり得ません。僕らよりもずっと強い免疫力です」
ヴァサルはタバコを取った。
「南耀はね、うちの一番の客層なんですよ。それでいてもらうのが一番良い」
「助けないんですか?」
「何を急に真面目になってるんですか?」
灰皿のカスをゴミ箱に捨てる。
「今まで放っておいて、急に危機が上陸した途端に慌てて。バハイは忙しいが、隔離してしまえばそれまでです。あとはお任せください。新薬でもなんでもすぐに作りますよ」
「隔離と封鎖はしてみせますが、その新薬というの、どうやって作るのですか?」
答える前に、タバコに火をつけ、ゆっくりと吸う。
「安全で任意の被験者からのデータです」
煙の先で、バイエン長官はヴァサルが話し続けるのをしばし待った。ヴァサルはタバコを咥えた。
「隔離は時間との勝負ですよ」
床を踵で抉るように、長官は背中を向けた。
「…何を怒ってるんだかね」
部屋を出るのを待って、ヴァサルはタバコを捨てた。
「エサーグとやら、分かってるな? 奴らの持つ情報全て消してくれ。奴らがいては何も出来ない」
「代表秘書はどうしますか?」
「情報抹殺が先決だ。反乱軍の奴らに、生物兵器として使われては本当に意味がない」
いや、と笑う。
「使ってくれたら、逆にこっちで特効薬を作ればいいだけだ。いずれにせよ、状況の制空権を奪取する。今は反乱軍がそれを握っている。それは良くない。助けよ、さもなくば傷つけるな、だ」
グランクとシャガルは頷いた。
「準備します」
二人が出て行き、バイエンは首を回した。
「あの二人がいると怖いな」
オブスターを振り返る。
「お前も行け。好きなだけ連れて好きなだけ暴れて来い。さっさと事態を収めてくれればそれでいい」
*
政府庁舎の、鋼鉄のシャッターが、激しく揺れ続ける。
会議室で、コウプスがプロジェクターに地図を映した。地図上の、バハイの南半分は赤い点で埋められ、政府庁舎と警察署が北部中央に青点、そして北部と中部で緑の点が数点置かれていた。
「街の半分が感染域となっている。ここも時間の問題だ。国軍がすぐに街を包囲する。地元警察と既存の軍部が、今夜中に避難を開始。同時に、緑の点、ダムナグ施設各地でエサーグとの戦闘も続いている」
「この最中で?」
南燿支局長が額を抑えた。コウプスは苦笑した。
「エサーグが軍船を港に送ったと思われます…局長はヘリで、他の人員は軍の護送車で、3時間後に避難開始です」
大使は頷いて立ち上がった。
「私も同じ指示を中央から受けた。この建物は破棄されるため、機密情報の消滅もそれまでに完了する様に」
「地上部隊の避難先はバハイ空港。すでに空港は警察と軍が検問を敷いていますが、完全に封鎖される前に、北警察署から軍が到着次第、避難を開始します」
「皆の無事を祈る」
一同は部屋を出た。
コウプスが護送隊を組織する中、アンサングの携帯が鳴った。
「長官」
「イウェンは?」
「こっぴどくやられて、トイレでいじけてます」
「珍しいな」
「反乱軍ですよ、なかなかやります」
「見てるか? ニュース。ライブ配信」
アンサングはテレビをつけた。ダムナグの代表秘書が、エサーグの将校に銃を突きつけられ、質問に答えている。
「これだ、これを阻止しなければならない」
長官の怒声に、アンサングは苦笑した。
「連中、相当証拠を集めている様ですね」
「証拠でもなんでもない。これはテロ行為でしかない」
「生物兵器ですかね? ここの警察と軍が戦っているのは、エサーグ反乱軍ではなさそうです」
「方法は問わない。反乱軍の活動を止めろ」
ライリーと名乗る軍人が、カメラの前に立った。
「苦しみはもう十分だ。エサーグは南耀の森であなたを待つ」
長官のため息がそれに続いた。
「絶対に阻止しろ」
「わかりました」
携帯を置き、テレビを消す。顔を洗おうと、トイレに入る。
鏡の前で、イウェンが髪をかきあげていた。
シンクが赤く染まっていた。
アンサングは右手甲の傷を顔の横に添えた。
「だいぶやられたな…俺もだけど」
イウェンは無言で同意した。
手には研ぎ終えられた短刀が握られていた。
その刃を、イウェンは髪に当てた。
「次は負けない」
*
背中を、誰かの爪が掠めた。
アパートの屋上に転がる。頭上を銃弾が通過する。兵士達に塾の感染者は任せ、アパートの屋上の扉にエテューは走った。
扉は固く閉ざされていた。
「再装填」
兵士達の少し落ち着いた声。塾の屋上に見えるのは感染者の死体だけになっていた。
「サプレッサーつけよう」
部隊と兵士達は新たな銃口を塾の扉に向けた。エテューと警官はアパートの扉の近くに立った。
そこからは、2ブロック先に、北警察署が見えた。パトカーとトラックを入り口に積み重ね、なんとか感染者達の群れを押し留めている。屋上と窓からは銃火が弾け続けている。
その反対方向、西のはるか先に、エテューの家はあった。
警官が無線を取った。
「本部へ! 北警察署から3ブロック西側の塾横アパート屋上に待機。指示を願う!」
銃撃の続く警察署の横で、警官達はなるべく音を立てずに、検問を敷き、一人一人、容態を確認していく。その周囲の建物と、警察署の屋上と窓から、発症する者がいないように、狙撃手達は見張る。
エテュー達の前方__パチンコ屋の屋上__北警察署の第3部隊が配置されていた。
「発砲はサプレッサーを持つ者だけにしろ」
無線に指示が入る。
「本部へ。なんでこんなに囲まれるところで待ってるんだ? ここをキープするのか、それとも攻勢に出るべきか、指示を願う」
隊長が苛立ちを隠さずに本部に無線で問う。エテューは拳銃を握り直した。最後の弾倉。足首の拳銃には七発だけ。
街全体が感染したとする。その頭全てを一発で撃ち抜いたとして、5千万発の弾丸が必要になる。今、ここにいる戦闘員の数は5〇〇人程。一人あたり五〇万発の弾丸を運び、撃ち込まなくてはならない。
弾薬と武器と人員の補給がなければ、勝てない。
「前線部隊へ。後退時の経路の確保を最優先。腰と頭を狙え。平面で闘うな。どこまで長期になるか分からない。国軍増援到着まで持ち堪えろ」
「了解。全部隊へ。補給経路、退却路の確保が未完了の為、弾を節約せよ。誤射にも注意」
エテューの前で、兵士達と部隊員達が装備を並べ、弾倉を再分配した。
「名前は?」
兵士が聞いた。
「エテュー」
「サバサだ」
リーランド、ロニー、カン、シュウ、ベイリンと、名前は続いた。
予備弾倉が渡された。それを受け取る手は、エテューの唇も、微かに震えていた。
まだ、エリと連絡が取れていなかった。
エリの顔を、感染者の激流の中に見つけるのが、怖かった。それでも、エテューは照準に目を添えるしかなかった。
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