高原の光と影(軽井沢)

  昭和54年9月の初秋、大学生だった私は、ひとりで自家用車を運転していた。軽井沢という土地に初めて向かっていた。
 その頃、令和の時代の今ほど軽井沢への交通は便利ではなかった。高速道路も新幹線も通っていなかった。自家用車なら一般道、電車なら在来線を利用した。
 私は北関東から一般道を走り継ぎ、やっと県境を抜けて信州に入った。大きな鉄橋が見えてきた。渡りきるのに少し時間がかかりそうだ。幅の広い大きな川が眼下に流れている。その先で、いよいよ碓井峠に入る。
 道路の両側は高い山並みで囲まれてきた。これから峠越えをするわけだ。
碓氷峠は古くからの難所だったらしい。江戸の旅人は、歩いて通り抜けるのに難儀をした。
 Y字路に差しかかる。標示板に、はっきりと左が旧道、右がバイパスと案内されている。
 旧道とは、江戸時代の5街道のひとつ中山道の元の道という意味だと、後で知った。昭和になって新しくバイパス道路が開通してから旧道と呼ばれるようになったようだ。
 
 旧道を通ると、峠の先の軽井沢では国鉄の路線の北側に通じる。当時、今のJRはまだ民営化されておらず、国鉄と呼ばれていた。一方、バイパスを通ると、その路線の南側に出る。
 初めての土地への自動車旅行で、この分かれ道のことは、助手席に置いてある地図であらかじめ確かめていた。
 どちらの道を選ぶか、ここが運命の分かれ道だ。どちらも通ったことがない。判断材料は乏しい。
 仲間たちと予約してある貸別荘は軽井沢の北部、北軽井沢と呼ばれる地域にある。その方向に向かうため旧道を選んだ。
 ところが、これは誤った選択だった。目的地の方角ではなく、道路の状態を重視すべきだった。
 
 峠道は舗装されておらず、砂利道をタイヤが踏みしめる音が続いた。道の両側は、高木が日光を遮っている。昼なのに薄暗い。低木の群れが斜面を覆っている。山の斜面に作られた道で、周囲には建物らしいものはない。歩いている人の姿もない。
 万が一、こんなところで車が斜面を滑り落ちたら、その先はどうなってしまうだろう。車が故障で動かなくなったら、時々見える他の車は助けてくれるのだろうか。
 目の前の道は、つづら折りの繰り返しだ。自分が運転という単純労働を繰り返す人形のように思えてくる。人から強いられているような気分になってくる。
 しかし、やっとの思いで碓氷峠を走破した。
 
 その先で目の前に開けたのは、山懐に脈々と活気を呈して生息するような避暑地の軽井沢だった。一帯には、素朴な山間にありながら都会的な気品があった。西洋風な雰囲気を漂わせる、不思議な顔を持っていた。
 私は元々、軽井沢に別荘を持つほど裕福な人間ではない。ただその土地の魅力には素直に惹かれる。
 
 胸を撫で下ろして、中軽井沢駅のそばで車内の時計を見る。自宅を出てから4時間近くたっている。孤独な自動車の運転に耐えてきた。しかし、心配していたほど仲間たちとの待ち合わせの時刻に遅れてはいなかった。
 そのうち、ディーゼル機関車に牽引された列車が駅のホームに滑り込んできた。仲間たちの顔が車窓に見えないかと目を凝らす。乗客を降ろすと、列車は再び次の停車駅に向けてゆっくりと動き出した。
 
 仲間たちと顔を合わせた。私ともう一人の自家用車2台に分乗する。私は仲間の車の後を追ってアクセルを踏んだ。
 両側を樹木で囲まれた2車線の道路が、しばらく続いた。
 上り坂の両側から緑の木々がおおい被さっている。色々な角度から木漏れ日が車内に差し込む。それがあちこちに細かい模様を作る。
 すがすがしい森の中を仲間たちと一緒に進む。夏の別荘地の、若さにあふれた心楽しい時間が始まったような気がした。それまで車のクーラーから出ていた風が、改めてさわやかに感じられる。
 やがて、草木のほとんどない原野が前方に広がった。横に一直線の地平線が現れた。開放的な空間に刺激を受けたのか、前の車はスピードを上げた。私も高速度の運転に一抹の不安を覚えながら、アクセルを踏み込んだ。
 
 山奥に入り、今度は舗装されていない道に出た時は、全員が驚きを隠せなかった。その驚きを倍加するように、車は悪路の上を走りながら、不快な音を絶え間なく発した。上下の不規則な振動を仲間たちの体に伝えた。
 車は北軽井沢の別荘地に到着した。
 床の高いしゃれた木造家屋を見たとき、仲間たちは感嘆の声を上げた。
 初秋の兆しが、森林の間を流れる空気に感じられた。平野部の生ぬるい空気とは異なる、引き締まった冷気に包まれている。別荘の姿は周囲の風景の中で際立った輪郭を示していた。
 2つの別荘を男女に分かれて使うことにした。それぞれがトランクから荷物を出し、ソファに体を預けて一息ついた。しかし、日の暮れかかった周囲の情景を見ているうちに思い立った。夕食の支度に取り掛かろう。近くに食堂はない。
 
 軽井沢旅行の2日目、仲間たちは午前中からテニスコートに走り出た。
 山々の雄大な稜線が、目の前の風景を横断していた。山の姿は巨大な女性の体のように見えてきた。
 豊満な女性がこちらを眺めて、遠くに静かに横たわっている。山の曲線は、くねくねと動くベッドの上の女体を想像させる。
 山並みを背景にして、テニスコートは高原独特の樹木に囲まれている。白線で描かれた長方形を、ネットが中央で分けている。コートの内と外の対照的な色彩は、森林の濃い緑と共に目を刺激する。
 私はひとり悦に入って、目に映るものを何ひとつ見逃すまいと精神を集中させる。
 仲間たちの様々な動きが、目に飛び込んでくる。ときどき歓声を上げ、笑い声を出す。誰からも干渉されることなく、コートを走り回っている。
 仲間たちは一様に流行の長髪で、腕も脚も露にしている。原色のテニスウェアに身を包み、ラケットを様々に振って、澄んだ空気の中で生き生きと動く。
 黄色のボールが、ラケットに打たれてネットを飛び越え、右に左に行き交う。コートに接地する心地よい音が、木々の間に反響する。
 まるでここは、地上の楽園のようだ。あるいは、幼い頃に見た絵本の図柄にも似ている。
 夏の終わりの避暑地で、若者たちがテニスに興じて休暇を過ごす。高級別荘地で優雅な時間が流れる。下界の煩雑さや苦労は、樹海の続く眺望のはるか彼方の他人事に思える。
 甘美なメロディーが流れてくる。心を揺さぶる、ジャズピアニストの即興曲だ。音楽好きの仲間が、自宅から持ってきたラジカセをもってきた。ボリュームを上げてベンチの上に置いていた。木立に囲まれて、ピアノの音色に心を躍らせる経験は、私にとっては初めてだ。
 若者たちのはつらつとした動きがある。すがすがしい表情がある。生きる喜びを体じゅうで発散している。若さは貴重な財産だ。仲間たちと共有する生の華やかさをかみしめる。
 そんな感動的な瞬間が次々と去っていくのが残念に思える。周囲には、人影は見当たらない。この空間は若者たちが独占している。気の遠くなりそうな平穏さに包みこまれている。恐らく、この時間はやがて終わり、似たような時間はしばらく訪れない。人生は、やはりひとつの虚構なのかもしれない。
 
 午後は、私たちは近くの観光名所を車で見て回った。
 軽井沢駅の周辺は旧軽井沢と呼ばれている。駅の北側には軽井沢銀座と呼ばれるにぎやかな商店街が続く。
そこから北に上ると、白糸の滝という有名な滝がある。そこを見物し、滝を背景に記念写真を撮った。確かに、滝の水は一本一本白い糸を引くように流れ落ちている。
 北軽井沢の別荘地から一行は草津方面に向かった。広大な不毛の高原をドライブした。
近くには白根山という休火山があった。その火口付近に行った。湯釜と言われるカルデラ湖を見物した。めったに見られない風景だった。広大な大地のくぼみが目の前にある。それが濃霧の中で、硫黄の溶けた青白い水をたたえている。
岩に囲まれた白濁した水が湯治場の温泉を連想させる。この湖は、さながら巨人が利用する温泉と言えるかもしれない。
 
 高原の滞在は3日目になった。
 昼間は、戸外は太陽の明るさ、空気の清らかさに満ちている。夜間は一方、別荘の室内の時間は暗く濁って、怪しく、アルコールの酔いの中で曖昧に揺れる。
 夕食は、女たちの山荘で取ることになった。木製のフロアの部屋だった。料理を食べ終えると、仲間たちは酒をあおり始め、あれこれと話をして騒ぎ始めた。
 いつの間にか、誰かが食卓を部屋の隅に押しやった。仲間たちは人が変わったように、1人2人とふらりふらりと立ち上がった。部屋の電灯の下に集まり、体を動かし始めた。
 男のひとりは音楽に気を配った。ラジカセから流れてくる曲は、昼間のジャズからポップスに変わった。
 薄暗くなった部屋の中で、誰かが踊り、誰かが休んだ。
 
そのうち本格的なディスコ・パーティーが始まった。
 誰かが部屋の電気を切った。暗がりで怪しげな人影が揺れ動き始めた。私は揺れている人影を、酔った眼でぼんやりと眺めた。
 私は誰かから渡されたグラスのウイスキーを、一口に胃の中に流し込んだ。
 激しく踊り狂った。叫び声をあげ、仲間たちの輪の中に転がり込んだ。できる限り体を動かした。体をひねり、頭を振り回した。床に仰向けになって、もがいた。
 リズムにもテンポにも乗っていなかった。規則正しさや流儀の全くない大暴れに似た踊りだった。
 私の体は息を弾ませ、休息を求めた。しかし、ラジカセの音楽が再び襲ってきた。その曲調の波に、意志に反して操られた。
 漆黒の闇と森林が延々と広がる戸外では、大きな音量に苦情を言ってくる者もいない。
 この頃、若い世代には、ディスコブームが到来していた。私には、それは単なる体力の消耗とも、時間の浪費とも思えた。遊びほうける学生生活に、罪悪感や後ろめたさを覚えた。私はときどき、世の中には直視すべき厳しい現実がいくらでもある、こんなことをしていては良くないと自分に言い聞かせた。
 しかし、仲間たちの大半は、自分たちの自由な時代を楽しんでいるようだった。
 
 滞在4日目の晩を迎えた
 仲間たちは男たちの別荘で、寛いで雑談した。前夜に引き続いて酒に酔った。恋や人生についてさまざまなことを語った。体験を引き合いに出して語り合った。中には痛飲して、疲れて眠り始める者もいた。私は自分たちが青春と呼ばれる時代の真っただ中にいるのかもしれないと思った。
 
 5日目の朝になった。
男のひとりは、交際中の2人のことを仲間たちに話した。2人はその時いなかった。
「けさ、ノックしないで無造作に、あの部屋のドアを開けたんだよ。そしたら、2人が重なってたんだよね」
 そう言って、皆を笑わせた。
 一行は家に帰る前に、別荘地から市街地に下りた。
 軽井沢銀座では、夏の間、沿道に有名な企業などが出店している。避暑地の贅沢で華やいだ雰囲気が漂っている。
 駅前で記念撮影をして、仲間たちは別れた。高原での全日程は終了した。
 私は車にガソリンを入れて、帰途についた。車の中でひとりになって、もと来た北関東への道を戻り始めた。
 蛇行する幹線道路で、排気ガスを巻き散らす大型トラックの後ろ姿を見続けた。ふと、あの高原の出来事がすべて夢ではなかったのか、という思いに捕らわれた。
 目に映るものに関心がなくなり、わけもなく感傷的になって、涙ぐんでいる自分に気づいた。仲間たちとの別れが、永遠の別れになってしまうのではないか、そう自問した。
 ディスコパーティーのときと同じ陶酔が、意識の中に忍び込んできた。
 睡眠が不足して、まぶたを完全な状態で開くことができなかった。
 トラックの後ろ姿は、何度目かのカーブに差しかかって、徐々に姿を消していった。眼前に見事な眺望が開けた。あのテニスコートで味わったのと同じ感動が蘇った。

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