ランナーズ・ハイ
トランジションエリアでは、他の選手と衝突しないよう慎重に、なるべくスピーディーに進みました。ロードバイクをバイクラックに停めた後は、流れるようにヘルメットを外して、ランニングシューズを履きました。関東の大学生、キクチ君はトライアスロンの学生選手権大会に出場しています。スイムが終わった時点での順位は50位、バイクが終わった時点で順位を35位まであげました。そして現在、トップ集団がある程度まとまった団子状態で、ランに移ろうとしています。最後の10㎞のランコースで、かなりの順位変動があると予想されます。キクチ君はスイムやバイクよりもランを得意としているので、ここからの上位入賞を狙える位置にいると分析していました。一般的にトライアスロンのランというのはスイムとバイクを終えて、ある程度疲弊した状態からのスタートなので、快調に走り始めるということは、なかなかありません。人によっては体が鉄のように重くなるものです。ただ、この日のキクチ君はいつにまして、すこぶる快調でした。体がお麩のように軽く、両脚は前へ前へと小気味いいピッチで回転しています。なにより気分が爽快です。さっきまで頭の中で冷静に分析していたレース展開や順位は、ランコースに入ってから、もうどうでもよいものになっていました。感覚が異様なまでに研ぎ澄まされていて、まるで自分以外のすべてが一時停止しているかのように感じます。鬼の形相で走っている他の選手たち、沿道で声をだして応援している人びと、それらを取り囲む景色でさえ。この瞬間、キクチ君は宇宙であり、宇宙はキクチ君のために存在していました。そして、このままでは一瞬にうちにゴールまで到達するという確信がありました。「それは嫌だ。まだまだ走り続けたい。」キクチ君は、流れるようにランコースを外れ、そのままレース会場を抜け出し、市街地の方へ走っていきました。
駅前のケンタッキーに入って、フライドチキンを食べました。店員たちはキクチ君の存在にぜんぜん気づかないようですし、レース中でお金をもっていなかったので、ドラムの部位を一つ勝手に頂戴し、後で代金を払いに来ることにしました。次に、この地域ですこし有名な温泉に行って、その露天風呂で体を温めました。入浴中も誰かに気づかれることはありませんでした。体がより軽くなり温泉の効能を実感したキクチ君は、動物園に立ち寄り、そこでカピバラたちをながめました。まったり気持ちよさげにお湯に浸かって、まったく動こうとしないカピバラを見ていると、なんだか、そろそろレースに戻りたくなりました。
トライアスロン会場に戻り、さっき離脱した場所からレースを再開したキクチ君は、ランで大幅に順位をあげ、2位でゴールしました。やはりヤマシタ君にはかないません。表彰式のセレモニーが始まる前に、大会の審判団からレース中に離脱したことを指摘され、キクチ君は失格となりました。「それでもいいさ。あの瞬間、ぼくは宇宙だったから。」そして、入念にクールダウンを行いました。
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