見出し画像

初投稿

こんにちは。
水越朋といいます。
東京を拠点にコンテンポラリーダンスとよばれるダンスを踊ったり作品を作ったり活動しています。

新年新たにということで、noteを始めてみることにしました。

初投稿なのでまず自己紹介を。

私は神奈川県の平塚市という海と山に囲まれた地で生まれ育ちました。
自然豊かな場所で家の裏は雑木林、近くには牛小屋豚小屋があり、田んぼに囲まれているような場所。体育と図工と音楽の授業が好きな子どもでした。

4歳で姉が習っていたバトントワリングを真似して習い始め、それがダンスへの入り口でした。バトントワリングの技や技術の他に、ぽんぽんを使ったダンスやマット運動などをやりました。私は特にマット運動が好きで、習い事をやめる頃にはバク転や側宙(手をつかない側転)も出来るようになっていました。

ピアノも3歳から長いこと習っていて、今も音楽や楽器が好きです。姉が辞めた後も自分の意思で続けた最初で唯一の習い事であり、ピアノの先生が明るく魅力的な人だったのも大きく、中学卒業を機に惜しくも辞めるも大学時代に二年間ほど再開したりと一番長く続けた習い事でした。

高校受験の時期になり、勉強(とよばれる受験科目)が面白くなかった私は高校にいく意味が見出せずその旨を真面目に親に伝えると「高校は行ってくれ」と言われ、じゃあ何か目的をもって高校に行こうと決めダンスか音楽か悩み、ダンス部の強い高校に進学しました。

高校では創作ダンスをやっていました。創作ダンスの全国大会でも沢山賞を取っていた高校でしたが、正直とても苦しい3年間でした。この時期に一度死んで、ここから生きているような気もします。
コンテンポラリーダンスに出会ったのも高校生の頃でした。
何だか得体の知れない、よくわからない、でもドキドキする、自由でかっこよくて、どんどんと引き込まれていきました。学校に申請を出して(寄り道は許可が必要な学校でした)部活終わりに東京に公演を観に行くようになりました。セーラー服におさげ姿で歌舞伎町を早歩きしながら今は無きシアターアプルに向かう記憶は思い返すと異様で面白いですが、当時は(歌舞伎町の怖さは感じずも)開演時間ギリギリで慣れない東京でとにかく必死でした。
あの頃は学校と家の往復しかなかったので、ダンスを観に行くこと自体が日常から解放されるとてもわくわくする時間でした。

踊ることはもう無理だと思い、舞台全般を学べる桜美林大学総合文化学群演劇コースというところへ進学しました。舞台の裏方を学びながらたまに踊れたらと思っていたのですが結局ダンスにどっぷりと引き込まれていきました。
大学は自由で面白いことが沢山世の中にあることに気がつかせてくれた時間でした。皆でわいわいするのが下手で、一人で図書館や映像資料室に籠ったり散歩に出かけたりするのが好きでしたが、大学の仲間とわいわいしていた時間はそれはやはり貴重な時間でした。何よりそんなスタンスの自分も受け入れてくれる面白がってくれる環境には大きく救われました。大学時代の友人はちょっと特別な気がします。

卒業後はフリーのダンサーとして、自分のソロ作品を作ったり振付家の作品に出演したりしています。

自己紹介のつもりが生い立ちになってしまった…
そして卒業後が二行しか書けませんでした。
卒業後は過去じゃなく今である感覚が強いので、振り返るには短い期間な気がし書くのが難しかったのですが…色々と活動してきました。書こうとすると長くなるし活動履歴みたいになっちゃいそうなのでひとまず二行にしておきます。

好きなものは猫と読書と草。
ここ最近ずっとキャンプしたいと思いながらテントをメルカリで眺めています。
今年こそキャンプしたいです。

ダンスのことカラダのことアートのこと日常のこと、色々と書いていけたらと思います。どうぞよろしくお願いします。




この記事が参加している募集

いただいたサポートはダンス公演などの活動費として使用させていただきます。