喧嘩して、15km歩くことになった話。
「もうええわ、ここで降りる!」
と叫んだのは、ちょうどバイパスの真ん中を通り過ぎる頃。車を止めたあたりに、信号もコンビニもない。周辺を取り囲む小高い山、隣町との境目にあたるそこから自宅までは、15キロほどであろうか。
しまった、なんて思わないぞ。
そんなことより今は一人になるのだ。隣にいる、この中国人夫と結婚している事実を忘れたい。
と思って、わざわざ私から提案してやったにもかかわらず、
あのやろう、あっさり降ろしやがって!!
もういい。
こうなったら、歩いてやる。
距離などこの際問題ではない。振り返らず歩くのだ、ひたすらてくてく、どこまでも!
その私の横を、ブーンと我が家の車が通り過ぎていくのを、怒髪天で見送った。
というわけで、頭を冷やすため、自宅まで徒歩約15キロの旅へ。
不思議と、足取りは軽かった。
今まで気づきもしなかった、この街の風景に目を奪われた。
歩道の脇には、見たこともない花が咲いていた。
もうずっと前から閉まっていると思っていた食堂は、煌々と灯りをつけて営業していることを知った。
今にも崩れ落ちそうなボロボロの空き家は、近くで見ると思ったほど不気味ではなかったし、
逆に繁華街だと思っていた量販店あたりの団地のほうが、時間がとまったかのような静けさだった。
見えるものが変わると、考えることも変わるのだなあ……。
ハッ! いけない。
私は、あいつに車から降ろされたのだった!
感情にまかせて突発的行動に出たが、あいつは、こんなところに女一人を残して走り去れるような、そんな肝がすわったやつではない。
きっとこのカーブの先、コンビニの駐車場あたりで、すまなそうに待機している車があるに違いない。
そんなやつの車にあっさり乗るのも悔しい。会ったら無視して進むか、いやまあ、反省の弁でも述べさせてから受け入れるか、まあ会ったらそのとき考えてやろう!
と思って曲がったカーブには、自転車ひとつなかった。
そうだった、私は歩くのだ!
ひたすら前へ! 前進、前進、前進!(中国の国歌みたいだが、違う!)
歩けば、あんなに見えてくるものがあったではないか。歩けばまた、路上の草花に目を奪われ、気になる店でも見つけるだろう。
しかしそろそろ1時間、いいかげん、歩かない方法を探してもいいかもしれない。
……と、思って立ち寄ったバス停で、田舎では公共交通機関というものがほとんど機能しないことを知った。
土日祝日、ほぼ空欄か!
平日ですら1時間にせいぜい1〜2本しか配送されない、スカスカの時刻表を疲れた体で眺めながら、私は田舎の高齢者ドライバーのことを思った。
そういえば、私の横を通りすぎるのは、車か、自転車を漕ぐぴちぴちした中高生ばかりだ。歩いているぴちぴちの中高年なんてのは田舎にはほとんどいない。みんな車持ってるんだよな、でも、車がなくても歩けばイオンにいけるよ!
なんて負け惜しみも挟みつつ、声を大にして言いたいのはそろそろ歩き始めて2時間半、この2本足があるかぎり、人ってどこまでも前進していけるということだ!
いや実際、これは、実はものすごいことなのではないか。
車がなければどこにも行けないと思っていたが、健康な体さえあれば、どこでも行けてしまうのではないか。
あいつと喧嘩でもしなければ歩くこともなかった距離を歩いてみたら、自分にお礼を言いたくなった。健康万歳!ありがとう自分!
健脚の私はさらに歩く、歩く。歩けばまた何かが見えるはず……!
が、日はとっぷりと暮れはじめた。
あたりはどんどん暗くなった。
そう、私は完全に忘れていたのだ。
この世界には、時間というものが存在することを。
健康といえども、体力には限界があるということを。
一歩先のガタついた道につまづく。歩幅はどんどん狭くなる。対向車からのビームに照らされる自分は、一体どんなナリでうつっているのだろうかと思った。
行けども行けども、「ごめんね」と言って迎えにくる車の気配もなく、かといってもう「あのやろう!」と怒る気力も残ってはおらず、
歩き始めて4時間が経とうとするころ、つーーーっと涙がこぼれ始めた。
そもそも、私はなぜこんなに歩いているんだ?
だいたいあいつのせいじゃないよな。
あそこで怒鳴っちゃった私がダメだよな。
一体どうして、700円の中古のジャケット買う買わないで、あんなにモメたんだ? 中古品を愛してやまない夫のクローゼットに、2度着ない中古服が溜まる一方なのが腹立たしかっただけで、700円のポロのジャケットくらいで、なんであんなに?
明るいうちは憎しみのエネルギーもわいてきたけど、夜道を歩く今は、もはや生きているのがむなしい………
という負のエネルギーにのみこまれそうになる頃、私はやっと、約15キロ4時間の旅を終え、自宅にたどり着いた。
***
「おかえりー。」という娘の無邪気な声。
食卓にはできたてほかほかの夕食。
ん、なんか、この現実と今の自分が釣り合ってないぞ、と思っていたら、台所の奥でエプロン姿の夫が「ごめんね。」とぼそっと言うのが聞こえ、
・・・ここまで歩く必要、あった!、のか?
と、思ったり、思わなかったり。
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