あなたには、「目に見えないもの」が見えますか?_子どもの才能を見逃さない
子どもの作文を読んでいると、才能がダダ漏れしているなあと感じることがある。
今日読ませていただいた女の子(小2)の作文もそれだった。
作文には、お母さんとスケッチに出かけた日のことが書いてある。
スケッチで描いた田んぼの絵のこと。お母さんと出かけたこと。絵を書くのが好きなこと。次は山の絵を描きたいこと。
短い作文の中に、女の子の「好き」が詰まっていて、それだけでなんて美しいんだろうと、ウッと胸にくる。こんな清らかな作文を、こんな私に読ませてもらってすみませんってなる。
しかし、この女の子の作文はそれだけでは終わらないのだ。さらに胸をぶち抜かれたこと、それは、
目に見えないもの
まで、書いていたことだ。
たいていの子どもは、「スケッチに出かけた。楽しかった」と書けたら満足し、これ以上書くことない、ってなる。そしてそれで十分だったりすることもある。
でもこの女の子は、大好きなスケッチに出かけた先で、自分が体験したこと、目に見える風景から、目に見えない風景を想像し、それを言葉にしたのだ。
女の子は、田んぼを描きながら、その中で暮らしているかもしれないおたまじゃくしのことを思い浮かべた。
そこには、おたまじゃくしの「学校」があるかもしれない。もしかしたら、かえるになる練習をしているのかもしれない、と。
そ、そ、そんなこと、かけます? 大人の皆さん!?!?
そして、その発想に文学的才能を感じた私は、女の子にこう尋ねたのです、「本当におたまじゃくしが見えたの?」と。全くの愚問ですよ、ごめんねこんな質問して。そうしたら彼女は、こう教えてくれました。
「ううん、見えなかった。いるのかなって思った」。
そ、そ、そんなこと、言えます? 大人の皆さん?!?!?!?
何かを書こうと思った時、私などはどうしても、目に見えたもの、実際に体験したことばかりに頼ってしまう。それが説得力をうむだの、裏付けだの、リアリティだの、のうのうと述べてしまう。反省。
確かにそういう文章が必要な時もあるけれど、言葉はそんな狭い世界で表現するためだけにあるのではない。文章はもっともっと、自由で個人的であって、本当はいいのだ。
今、目の前に見えている世界の「向こう側」に、別の世界が広がっているのかもしれない。
こうやって、その奥にある世界について想像を広げてみることは、大人も子どもも関係なく、ものすごく大事なことのような気がする。絶対に。
実は、この女の子の作文に驚いたのは伏線があって。
こちらで触れたこの本の冒頭、モネの「睡蓮」を例題に、アートを鑑賞することについて問い直している箇所がある。私たちは、この絵から何を見るのか。どう感じるのか。
そして、この絵を見たある子どもは、『睡蓮』の中に「かえるがいる」と言ったのだそうだ。
そこを読んで、私は思わず、掲載されている「睡蓮」を二度見どころか相当凝視したよ。でも、かえるはどこにもいなかった。見つけられなかった。
実際、『睡蓮』にはかえるは描かれていない。
子どもが「見た」かえるは、『睡蓮』の水の中にいたのだ。
まさか、自分がこの名著『アート思考』でも取り上げられている<観賞するとはどういうことか?>を、実体験すると思わなかった。
子どもは天才だと思う。そして、その天才のタネを、大人は絶対に見逃しちゃいけないと思うのだ。
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