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夏と秋のはざまの季節は、いつだって何かしらの決断を迫られて

一歩いっぽ、踏み出している感覚があった。東京・清澄白河の家の自動ドアが開く。

近づいてゆく感覚を持った。普段、こんな風に、「わたしはしっかりと歩いている」という実感がなかったことに、歩きながら思わず自覚的になる。

一歩いっぽ、目的地へと近づいてゆく。都会の考え抜かれた店々の外観や食事の素材、見栄え、思いもつかなかったような、求めていたのかわからないけれどなんだか欲しくなってしまうような「バリエーション」たちが、わたしの後ろへと流れては消えていく。

否、正確には消えない。戻ってくるだろうし、おそらく一生愛し続ける。けれど、いましばらく離れる決意。後ろへと流れて、遠く、遠い存在になっていってしまえばきっと。

がら、がらり、とスーツケースがいちいち大仰な音を立てたがる。久しぶりにこれを引く上に、世界一周の頃は32リットルの機内持ち込みサイズだったのに、1年間日本で仮暮らしをしてみたら、どうしてだか倍の60リットル超の容量になってしまった。「旅」ではなく「暮らす」ための道具たちが、ずっしりと体重を乗せてくる。

けど、おおよそこれが、「私」という人生の大切な荷物。これ以上でも、以下でもない。すべてが大体、ふたつの瞳と2本の腕で把握しうる範囲におさまってくれているというのは、身動きが取りやすくて大変よい。気に入っていなくもない私の慣習。

さて。

私の人生において、9月はわりあい、特別な時間になりがちだ。

たとえば、会社を離れると決めた日だったり、結婚しようと思えた季節、旅にもう一度出るのだと泣いた夜、やっぱりこの結婚とはお別れしよう、と覚悟せざるを得なかった朝を迎えたり。そういうのは全部、夏と秋の境目の風に乗って、「そろそろなんじゃあ、ない?」と私に届いてくる。

2020年、9月。がら、がらりと少し大きくなったスーツケースを引いて。旅と、暮らしを、たっぷりとその中に詰めて。できれば、いま抱きしめている恋心、愛情、みたいなものも、手放さずに連れてゆけたら。

夏と秋のはざまの季節は、いつもどうしてだか少し切なくなる。本当に大好きだから、愛しているから。まだ行かないで、と思うのかな。せめて、南に下ったとしたら。夏は、ちょっとだけでも長くなったりしますか?

秋は、「やっと気持ちがいい日々がやってきましたね」とにっこりと微笑みかけるけど。「私は、まだドキドキしていたい」と、秋の訪れを横目に、「もう少しだけ待っていて」と、別方向へと、つまさきを向けるの。


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