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フレンチからラノベ、そして日本の「アタラクシア」——『アタラクシア』を読んで

タイトルである「アタラクシア」は、ギリシアの哲学者エピクロスが説いた、欲望から解放された「心の平穏な状態」である。金原ひとみはこの小説で、「平穏」を求めながらも欲望にまみれ、もがきながら生きる人々を巧みに描いている。
 その中心にいるのは、フランス帰りの元モデルである由依だ。現在は翻訳家として働く彼女は、ブランド品に身を包み、同性からも憧れられる、周囲に流されない洗練された女性として描かれる。彼女にまつわるものは、たとえ不倫中のセックスであっても美しい。磨き上げられたその肉体は、夫以外の男性も「その気」にさせてしまう。
 著者の理想を託された由依[1]は、ライトノベル作家である夫の桂との関係に問題を抱え、フランス料理のシェフである瑛人と不倫関係にある。由依と瑛人の間には、ヨーロッパ的な成熟した男女の空気が漂っている。愛する人と、美味しい食事と酒、そして満ち足りたセックス。それさえあれば幸せだという価値観は、何者かにならなければならないと焦る人々にとって、魅力的な理想像だといえるだろう。
 由依の対局にある女性として描かれているのが、瑛人の経営するビストロでパティシエとして働く英美だ。日本女性の息苦しさを背負わされている英美[2]は、夫の度重なる不倫に苦しめられる被害者であり、8歳の息子に激しい暴力を奮う家庭内暴力の加害者である。どこをとってもくたびれた生活感がにじむ。家庭では伝統的な女の役割を担わされ、職場では男と対等に振る舞うことが要求されるが、あるときは女らしさを求められ、どこかで女としての喜びを期待する。英美を取り巻く苦しい状況は、日本に生きる女性が共感せずにはいられない切実さがある。英美は、由依に対して、嫌悪感と同時に、嫉妬と羨望を抱いている。しかし、由依のようになれたところで、はたして英美は本当に救われるのか。
英美が憧れているのは由依の一部分にすぎない。人は誰しも、他人と対峙するときに、自分にとって都合のいい角度で切り取った情報の断片を提示する。憧れの外国生活の裏には金銭的に困窮した末の売春が、モデルの経歴の裏には挫折が、婚姻生活の裏には死産があることを、英美は知る由もない。由依から見れば、パティシエの夢を叶え、男から仕事人として認められ、子供が健やかに育っている英美こそが羨望の対象かもしれない。
さらに言えば、そうした過去の事情を抜きにしても、由依を通して提示される幸福のイメージは、あまりに空虚で貧困だ。恋愛、美食、セックス。それは誰にとっても魅力的だが、だからこそ、それだけで満足せよというのは味気ない。著者がフランス在住経験があることを考慮しても、ヨーロッパ的な文化を素朴に美化しすぎているのではないか。
 「誰も愛していなくても、誰からも愛されていなくても、普通に生きていける」自立した女性として描かれているはずの由依は、経済的には桂に、精神的には瑛人に依存し、文化的にはヨーロッパの古き良き洗練にすがっている。その美しさが空虚なのは、それが「生活」の匂いを脱臭することで成立しているからだ。どんなに着飾った女性でも、月に一度は下着に生理用ナプキンをくっつけ、ときには下着や服を血で汚し、みじめな気持ちで洗濯する。生きていればムダ毛が生え、排泄し、添加物まみれの食事をすることだってある。そうした「あるがまま」に蓋をして、「よそゆきのわたし」だけを追求することを幸福だと定義するのは、あまりに窮屈で空々しい。英美ににじむ「生活」は、人間が生きている以上どこまでもつきまとう。いっときの洗練された幸福を演出するよりも、「生活」を肯定し、その中に美しいものを見出す多様性や想像力のほうが心の平穏につながるはずだ。
由依はむしろ、オタクになるべきだった。フレンチシェフとの不倫よりも、オタクカルチャーに救いを求めれば、ここまでややこしくならずにすんだはずだ。日本のサブカルチャーの美学は、キャラクターを通して自分の外側にある豊かさを見出す、フェティッシュに特徴付けられる。一次創作を下敷きに、キャラクター同士の関係性にフェティッシュを見出すオタクの想像力。その先にある混沌とした多様性の渦。他人のフェティッシュとの共存。日常生活の潤い。これらがすべてがつまっているオタクカルチャーに身を委ねれば、あらゆる「生活」を肯定して生きることができる。もはや、ラノベ作家に媚びる必要も、フレンチシェフに料理を作ってもらう必要もない。今やどこにもない古き良きヨーロッパに憧れて、自己否定し続けることもない。金原ひとみが由依から遠ざけたオタクカルチャーこそ、今、この日本で本当に人々が手にすることができる「アタラクシア」なのではないだろうか。

参考URL
[1]金原ひとみ「人生のゴールが見えにくくなっている時代に」, 夫人公論.jp (2021年2月4日閲覧) https://fujinkoron.jp/articles/-/642
[2] フランス生活を終えた金原ひとみ「日本人に必要なのは“共感のスイッチを切る”能力」, ハフポスト日本 (2021年2月4日閲覧) 版 https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5d2e79eee4b0a873f643695a

本記事は2021年 PLANETS Schoolの指定課題です。
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