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『沈黙の春』挫折したんだけど、もう一度手にとってみたくなった本。『科学者レイチェル・カーソン(こんな生き方がしたい)』小手鞠るい著を読んで。

「沈黙の春」を知ったのは、ある大学の聴講生をやっていた頃。

先生が読むと良い本リストを読み上げる、それをメモ、メモ。「失われた言語」は大学の図書館で借りたものの、撃沈。難しすぎた。

「沈黙の春」は他の図書館で借りた、読み始めたものの、あまりの文字の細かさにこれも撃沈。頭には、チェルノブイリの原発事故のことがあり、ああ↓と思った。

その後、夫の事故、同時に、東日本大震災、津波・・。

読書どころではなくなった。頭の片隅には、いつも「沈黙の春」があって。

ある日、夫の友人の奥様と電話で話す、「沈黙の春」って読まれました?と。

「読んだわよ・・だけど、今は恐ろしくて・・・」

さすが、英検準1級かと。


いつかは、もっと読みやすい装丁の本を探して、これは買うべき本だと決めているものの、なぜだか、後回しになっている。やはり、あの聴講があまりにも早すぎて、内容も難しく、先生も高圧的だったし・・。


今回、児童書も書いてみえる小手鞠るい先生の「こんな生き方がしたい」の「科学者レイチェル・カーソン」を読んでみて、とてもわかりやすい文章で、彼女の生い立ちも、わかりやすく書かれていた。

もともと、レイチェルは、作家志望だったことも。「セント・ニコラス」という子供の雑誌に、自分の書いた作品を応募しては、掲載されるのを夢みて、書き続けた子供時代。

 文章を書くことは、レイチェルにとって、本を読むのと同じくらいに心のわくわくする、楽しいことでした。書いてはなおし、書いてはなおし、レイチェルは何度も何度も、気に入るまで書きなおしました。
 ときには、書いた文章を声に出して読んでみました。読んでみて、ことばの響きがおかしなところがあると、またそこを書き直したのです。

こんな生き方がしたい『科学者レイチェルカーソン』P16,17

(私は、毎回毎回稚拙なnoteでさえも、AIの反応にびびり、書き直し、それでも、ダメ出しがくる。そういう時は、別な作業をして、また読み直して、書き直す。または、日を跨いで。最近は、あまり声を出して読み上げなくなりました。)

レイチェルが女子大学に入って、英文学を専攻しました。大学二年生になると、全員、生物学の授業をとることになってました。その、野外活動のある日、

・・今日は岩石の層の観察をするのです。
 学生たちは、岩石の層がむきだしになっている丘の斜面で、ハンマーとのみを使って岩石をていねいにはがし、手にとって観察しました。・・・
「魚だわ」
 それは、遠い昔、その場所が海だったときに、泳いでいた魚の化石だったのです。
「ここは昔、海だったんだわ」・・・
 子どものころ、貝がらを耳にあてては、まだ見ぬ海に思いをはせていた日々。大きくなったらきっと海を見にいこう、そう思いながら、海にかんする本を読みあさっていた日々。レイチェルは魚の化石を見つめながら、自分がどこかで海とつながっているのではないか、海とともに歩いていく運命にあるのではないか、そんなことを、漠然と感じとっていました。
ここで、「もしかしたら私は、作家ではなくて、科学者になりたいのかもしれない。」と。「それ以上に、自然や海や生物が好きでたまらない気がする・・・。」

 レイチェルはふと、窓の外に目を・・外では激しい風が吹き荒れ・・
・・アルフレッド・テニソンの書いた詩、「ロックスレイ・ホール」のなかに・・その詩の最後の1行に、・・・
 はげしい風が巻きおこった
 それは海にむかって、ごうごうとほえている
 さあ!私も行こう

・・海にむかって、私も行こう。

P57〜64抜粋

( 子供の頃の原体験って、今でもとても大切に思うのです。私の場合は、小学生になってから、化石山というところが実家のお隣の市にありました。夏休みだったと思います。そこは、第二次世界大戦末期に飛行機工場を疎開させるという目的で掘られた洞窟跡がありました。まだ、化石博物館もできておらず、親父も興味津々で、姉と私を連れて、恐る恐る、洞窟探検に入ってみるのです。途中で、引き返して、洞窟の外には、地層の塊の破片がゴロゴロと転がっていて、道具を持っていかなかったから、石と石をぶつけて、「化石でてこねえかなあ〜」と。貝の化石は見たような、それと、不思議なものも見つけたのですが、見失ってしまいました。「ここは、海だったかよ〜」というロマンよりも、化石掘りの楽しさを感じました。でも古代へのロマンは、漠然と湧くのでした。子供の頃の原体験のワクワク、ドキドキって、ときには、その後の人生の指針になるかもしれないからです。)

( 思うのは、文学って、ばかにできないといつも思います。悩んだとき、答えが出ないとき、積読でも、詩集がたまたまあると、おお、ここに・・ということもありました。私は、テニソンは未読ですが・・。(私は、神の暗示とよんでます。)

 話がそれますけど、親父の教育は少し乱暴だったかもしれませんが、親父ならではの、女親にはできないような原体験を、ついて回るたびに、おかしな原体験をさせてもらったような。釣り大会では、魚釣れず、マムシとりを、木の枝を半分に折りかけたもので、その隙間にマムシの頭を挟み込んで、見事捕獲とか。
 
 母親の方がかえって、冷たかったかなあと。ゴーカード、ジャンボプールには、連れってってもらったはいいが、ジャンボプールでは、浮き輪が外れて、足がつかず、溺れそうになっても、母、水着じゃないから、近くにいた男の子が浮き輪を寄せてくれ、それにつかまり溺れることなく。ゴーカードは、クラッシュばっかりして、全然楽しくなかったし。)


 それから、レイチェルは、なれるともわからない女性の科学者になるという苦難の道を行くのでした。大学の専攻科目を英文学から動物学に変更しました。
 奨学金もらえども、レイチェルの家は裕福ではありませんでした。


さらに、当時は、女性が大学院まで進むということは、奇異なことでもあり、多くの女性は一生続けられる仕事を持つことよりも、まず、結婚することを優先する将来を考えていた時代でした。

 一九二八年、ペンシルベニア女子大学を卒業したレイチェルは、メリーランド州のボルチモアという町にある、ジョンズ・ホプキンス大学院へ入学することに決めました。
・・
 大学院がはじまるまえの夏休みのあいだに、レイチェルは研究実習生として、ウッズホール海洋生物研究所へ夏期研修に出かけることになったのです。
・・
 研究所の目のまえは、海です。
 幼いころからあこがれていた海。レイチェルに進路の変更を決意させた海。
 その海を、やっと、自分の目で見ることができるのです。
・・
 海は、想像していたよりも、もっと力強く、そして同時に、もっと優しい気がしました。海にはいろいろな表情があり、いろいろな色がありました。朝焼けの海も、真昼の海も、夕焼けの海も、夜の海も、それぞれにいきいきと、レイチェルに何かを語りかけてくれます。
・・
 レイチェルにとって、ウッズホール海洋生物研究所で過ごした夏、海とのはじめての出会いは、一生忘れることのできないものになりました。

P67〜72抜粋

大学院で、科学を学んでいるのは、男子学生がほとんど。

1929年の世界大恐慌。家族の暮らしを少しでも楽にしようと、実験室のアルバイトもかねる。

1932年に大学院で、論文を完成させ、修士号をとり、科学者として歩き始める。

ところが、1935年7月父親のロバートが亡くなる。
 レイチェルは、大学の講師をしながら研究を続けるという生活をあきらめ、もっと給料の高い仕事をさがすことにしました。
 そのころ、アメリカ社会は少しずつ、かわりつつありました。女性が多種多様な仕事につくことのできる可能性が、以前にくらべて広がりはじめました。
・・
 ちょうどそのころ、漁業局では「海のなかのロマンス」という題名のラジオ番組を企画していて、その台本作家として、レイチェルはパートタイムとしてやとわれることになったのです。

P78〜83抜粋


1936年には、姉のマリアンが40という若さで亡くなる。中学校に通う二人の娘を残して。

これからは、レイチェルが中心となって働き、ふたりの姪を育て、一家を支えていかなければならなかったのです。

そんななか、漁業局のお役所仕事の試験に合格し、働き始めるのです。
事務職ではなくて、専門職員として、生物学者として。

ラジオ番組での台本の執筆、広報活動のためにつくっているパンフレットや雑誌の記事を書いたり、編集をする仕事がレイチェルにまかされた。
 そんなある日、ラジオ放送が終了したところで、課長は、海について原稿を書くという仕事をレイチェルに依頼。
「ぜひ、やってみます」

家に持って帰ってまでも、つづきを書く。
・・
 つぎの日、課長に渡すと、
「これは、使えないよ」

「この原稿は、すばらしすぎて、うちで使うのはもったいないと思うんだ。もう一度書きなおして、『アトランティック』みたいな有名な雑誌に送ってみたらどうだろう」

 さらに課長は、雑誌にのったレイチェルの短編を読んで、
「こんないい文章を、ただ雑誌にのっただけで終わりにするのは、もったいない気がしないかね。今度は、ちゃんとした一冊の本にするべきじゃないかな」と。
 ひとりは、出版社の編集長クインシー・ハウ氏。
 ヘンドリック・ウィレム・ヴァン=ルーン。彼は有名な博物学者で、彼にも、あなたのような人に、ぜひ海にかんする本を書いてほしい、と手紙が。

さっそく、ふたりに会うために、ニューヨーク市へと出かけ、出版社との話しあいの結果、「海のなか」をふくらませ、さらに手を加え、一冊の本として出版する約束ができた。
 一九三八年のはじめのこと。レイチェルは、三十一歳に。

第3章 海の伝記作家と呼ばれて
 三年かかって、レイチェルはやっと原稿を書きあげる。
 一九四一年、十一月一日。
 レイチェルが書いたはじめての本『潮風の下で』が出版された。三十四歳。
(第二次世界大戦が始まっていた。しかも、本が出版されて、書店にならんでから、わずか一ヶ月後の十二月七日、日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃。)だから、売れなかったはじめての本。

一九三九年、第二次世界大戦、始まる。
漁業局が、合併により魚類・野生生物局となる。
職場では、生物学者として、政府刊行物の執筆、編集業務につく。仕事は、ますます忙しくなる。
 このころ、政府の刊行物『自然保護活動広報』にのせるため、「海からとれる食物」「国内の河川からとれる食べ物」という論文を。これらの論文は、人びとにまだよく知られていない海産物を紹介し、戦争中の食糧不足の改善に、少しでも役立ててもらおうというものだった。

一九四五年 第二次世界大戦、終わる。
 戦争が終わった翌年から、レイチェルは、「自然保護の現状」というパンフレットづくりを担当することになる。
 この仕事のために、レイチェルは、いろいろな場所へ野外調査に出かける。

 つぎの本のテーマもやはり、海について・・
「科学者や専門家のためだけの海の本ではなくて、海の好きな人、海について知りたい人、まだ海のことを知らない人、そんな人たちのために海の本を書きたい。分かりやすくて、親しみ深くて、だれからも愛される本。それでいて科学的に正確な知識を、しっかりと盛りこんだ本にしたい」・・いわば、「海の伝記」のような本にしたかったのです。
 
 このころは、年老いた母親の体の具合も良くありません。家に戻ってからも、家族のために食事をつくったり、掃除をしたり、そんな仕事がたくさんあったのです。
・・日中は役所の仕事、夜は原稿の執筆、頭も体も疲れ切っていて、たった1行しか書くことのできない日もありました。

P114〜119抜粋

一九四九年、レイチェルが四十二歳のとき。
 レイチェルは海にもぐる決心をしたのです。科学者として初めて、海にもぐった海中探検家として知られる、ウィリアム・ビープ博士の強いすすめがあったからでもありました。
「自分の頭をまず海のなかに突っ込んでみなくちゃ、海にかんする本は書けないよ」
・・
 同じ年、レイチェルはさらにもうひとつの海の冒険に挑戦しました。
 魚類・野生生物局の調査船、アホウドリ三世号にのって、十日間の航海をしたのです。
 一方で、本の執筆は順調とはいえませんでした。
 役所では、レイチェルは政府刊行物の編集長となり、仕事は忙しくなるばかりです。十月と十二月に、まとまった休みをとって、本を書く仕事に集中することにしたもの、また職場に戻ると、今度は役所の仕事がたまっていて、家に持ち帰って片付ける、「地獄のような状態」なってしまった、と。

P119〜128抜粋

 レイチェルは、がんばり抜きました、海について書きたいという強い思いだけが、一歩一歩、まえに進ませてくれるようでした。

一九五〇年七月、すべての原稿が完成しました。タイトルは迷った末、『われらをめぐる海』と決めました。
『われらをめぐる海』が出版されたのは、一九五一年、七月二日のことでした。
 それから二ヶ月後の九月九日、この本は、アメリカの代表的な新聞「ニューヨーク・タイムズ」のベストセラーリスト、第一位にのぼりました。
『潮風の下で』の再版もたちまちベストセラーとなり・・。
 本がたくさん売れたことにより、生活は少しずつらくになっていきました。もう役所勤めをつづけなくても、生活に必要なだけのお金を確保できるようになってきたので、レイチェルは、長年つとめた職場を退職しました。
 もうひとつ、かなった夢は、メイン州のウェスト・サウスポートという海辺の町に、小さな別荘を購入したのです。

P131〜139抜粋

「海蛍の出会い」
 海辺の別荘には、レイチェルの姪マージョリーが、息子のロジャーを連れてたずねてくることもありました。そんなときには、三人で海辺を散歩しながら、貝やヒトデやイソギンチャクやカニを観察しました。
 ちょうど新月の頃、海は満潮となり、波は高く、勢いよく、三人の足もとまで押し寄せてきます。・・・
「わあ。あれはなに!」
 四歳のロジャーが叫びました。波のなかに、きらきらと輝く無数の光が見えたのです。
 それは、海のなかに住んでいるミジンコの一種、海蛍でした。波は海蛍を砂浜まで運んでは、打ちあげています。・・・・
「あ、あそこにも蛍が飛んでいる」
 それは海蛍ではなくて、陸に住む蛍でした。蛍はおしりに光を点滅させながら、空を舞っていました。
・・・
 ところがその蛍は、今度はなぜか海面すれすれに飛んでいます。今にも波にすいこまれてしまいそうです。まるで、陸の蛍が、海の蛍と交信しあっているようにも見えます。
・・羽根をすっかりぬらした蛍は、波といっしょに砂浜に打ちあげられてきたのです。湿った砂のなかで、瀕死の状態にありながら、それでもまだ弱々しく、光を発しています。
 レイチェルは注意深く、蛍を拾いあげ、それから、ロジャーのもっていたバケツのなかに入れて、別荘まで持ち帰り、羽が乾くのを待って、空にかえしてやったのです。
「もう、迷っちゃだめだよ」
 ロジャーは夜空のかなたに飛んでいく蛍の姿を、いつまでもいつまでも見つめていました。レイチェルはそのとき、蛍の光よりも、ロジャーの瞳のなかに宿っている光のほうに魅せられていました。
「子どもの世界って、なんて繊細なの」
レイチェルの胸の中には・・
「いつか、子どものために、自然をテーマにして物語を書いてみたい。子どもにとって何よりも大切なものとは、こんなふうに、美しいものにたいして感動できる心。そして未知のものにたいする限りない好奇心にちがいないわ。
 どんな子どもたちも、生まれたときから、そういう感覚を持っているはずよ。自然の神秘や不思議なできごとに驚き、目を見はることできる感性(センス・オブ・ワンダー)をはぐくみ、大人になってからも持ちつづけることができたなら、どんなに心豊かに生きていけることでしょう」

P141〜146抜粋


第4章 命をかけた『沈黙の春』

「沈黙の春」が「チェルノブイリ」よりも、「DDT」のことだったとは、この本を読んで初めて知りました。

 1957年のことです。
 姪のマージョリーが肺炎のため亡くなってしまい、レイチェルは、きゅうきょ、5歳のロジャーを養子に迎えることにしました。レイチェルは五十歳。
 つぎは、子どものための物語を書きたい、と思うようになりました。

 そんなレイチェルのもとに、一九五八年一月のある日、一通の手紙が届きました。

 手紙のなかには、・・昨年の夏、州の役所によって、空中から飛行機であたり一帯に散布された殺虫剤、DDT(一八七四年、ドイツの科学者がはじめて合成した有機塩素化合物。殺虫効果が大きく、戦後の日本でも大量に使用された)生で、周辺の森や庭の樹木に巣をつくって暮らしていた小鳥たちが、つぎつぎに死んでしまったというのです。

・・・・

 じつはレイチェルは、手紙を受けとる十年以上もまえに、すでにDDTの危険性に気づいていたのです。
 レイチェルは当時から、疑問に・・農作物に被害をもたらし、人間に病原菌を運んでくる害虫を駆除するという目的で、政府が使用を認めていたDDTが、害虫を殺すと同時に、そのほかの無害な昆虫や小鳥や魚たちをも殺しているのではないか。このまま、DDTが、なんの規制もなく、広い領域にまかれつづけると、いつかは自然界のバランスがくずれ、人間もふくめて生物界全体がこわされてしまうのではないか、と。

 十年前に、レイチェルはすぐに、DDTの使用にかんする警告の手紙を書いて、雑誌社に送りました。・・けれども雑誌社は、レイチェルの手紙を無視しました。
・・そして、後悔。

「今度こそ、なんとかしなくてはならない。これをこのまま見すごしたなら、ほんとうに大変なことになる」・・

 ひとりの科学者として、科学者の良心のもとに、
「書かなくてはならないときがやってきた」

「もしも私が沈黙をつづけるならば、私の心に安らぎはおとずれないでしょう」

 レイチェルはさっそく、執筆のための調査を開始しました。
 農業はレイチェルの専門分野でなく、調査は一から・・山のような資料を一つひとつひもとき、あらゆる分野の本を読み、世界中の学者たちに手紙を書いて、協力を求めました。

・・この問題の複雑さと恐ろしさが明らかになっていきます。


 一九五八年の暮れ、母親のマリア・カーソンが亡くなってしまいました。八十八歳。

その頃、レイチェルは自分の体のことを「まるで病気のカタログ見たいでしょ」と。あいつぐ、病気に苦しんでました。

執筆を始めて、二年が過ぎようとしている頃、レイチェルは、今度は胸がガンにおかされていることを知りました。
「私に残された時間が短いとわかった以上、本の執筆を一分たりとも休むわけにはいかなくなったわ」と。


1962年6月、『沈黙の春』が、雑誌『ニューヨーカー』に連載始める。9月になって、本が出版される。


私の感想は、『沈黙の春』がもたらしたものについては、ここでは割愛させていただきます。それは、私自身が、実際読了してから書くべき感想だなあと思いましたので。

でも、本当に、五十六歳という一生を大学生時代の「岩石の層」から魚の化石を見つけたときのワクワク、ドキドキ、そして、幼き頃の「文章を書くこと」の「心のワクワク」、実習生として研究所での「あこがれの海」の感動を失わず、走り抜けた生き様にただただ、うなだれてしまいました。

そして、私にとっては、大学の聴講のトラウマがなくなり、よりレイチェル・カーソンが身近な存在に思え、『沈黙の春』『センス・オブ・ワンダー』を読了することが新たな課題になりました。
 科学者でもありませんし、レイチェルほど、優秀でもなく、熱心でもないし、怠け者にすぎませんが、文章を書くことにおいて、書き直し、書き直し、一文字一文字、言葉遣いに注意して、ただ、私は、どこまで続けれるかわからないけど、日々、修練だけのようです。そして、いつも考え続けることだけは、そんな感覚だけは、持ち合わせていたいものだなあと思います。

 正直、感想文は苦手でして、抜粋が多すぎるのも、これは、ヤングアダルト向けで作者の手法を学ぶためだったような。
 曖昧な漢字を省き、人称代名詞を少なくして、くどいほど、「レイチェルは」と使っているところなど、勉強になりました。「彼女は」と私だったら、そうなりますけど。

 この本には、貴重なレイチェル・カーソンの幼き頃の写真、それぞれの時代の写真、別荘の写真も掲載されており、素敵な本でした。

 






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