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食べて、祈って、恋をした #1

こんなときに友人にも家族にも心療内科にも自分の気持ちを真っ正直に吐露できる相手がみつからなければ、肩をかして慰めてくれる人もいない。この20年あまりいったいわたしは何をやってきたんだ、とさらに落ち込んで布団にくるまって泣いていた矢先、旅先で知り合った友人のようなひとから一通のメッセージを受け取った。「一緒に旅にでないか」と。

出会いは一通のダメ元メール

そのひととは、とある一人海外ふらり旅の旅先で知り合った。そのひと、仮にQ太郎としておこう、そのひとは20代前半で北米や南米を自転車でまわる旅にでて、いく先々の国々でおぼえてきた料理をもとに異国でシェフとなって働いていた。現地でシェフをするかたわら、ツーリストに自転車ツアーとたまに料理も提供しながら緑の生い茂る大きな家で野良ねこと暮らしていた。

Q太郎と出会うきっかけとなったそのときのわたしの一人海外ふらり旅は、現地に住んでいた方のお世話になったこともあり、正直完全な一人旅よりはそうとう窮屈な旅だった。旅に出る前からうちへの手土産はこれ買ってきて、とかこの日は息子の試合があるから一緒にみるといい、それがこの国の流儀だから、とか、あれこれと指図されることが多かったため、旅が始まる前からかなりフラストレーションをためていた。わたしは現地でひとりになっていきいきとした時間を作ってから帰らないと、この旅には不満しか残らないと思い、自分が一番輝くこと=自転車で山を駆け巡る=という内容の現地ツアーを一心不乱になって検索していたというわけだ。そこでQ太郎のサイトがヒットしたのだ。

その旅で唯一空いていたのは帰国前日の1日だけだったのだが、Q太郎のツアースケジュールをみるとその日はあいにくツアー開催日ではなかった。だがしかし、これであきらめたらきっとわたしはこの国に心残りと未練を大量に残しながら日本へと向かう帰国便に乗りこむことになるに違いない。それは絶対にいや。
改めてサイト上のツアースケジュールをじっくり見てみると開催日に規則性はないようだ。ということは割とフレキシブルに対応してもらえるできるのでは?という都合のよい予想をたて、私は「開催日でないのは重々承知です。しかしこのツアー内容(自転車乗ったあとはバーで一杯飲もうという企画だった)は私のためにあるようなもの。この日をなんとかあけてくれないか」という不躾なお願いメールをダメ元で送ったのだ。
はたして結果は「OK」だった。その日はフルで対応できるので、自転車乗ったあとにバーへいき、よければそのあとボクの料理を食べませんか、という思いがけない提案をもらった。
それがQ太郎との出会いだった。

一緒にキッチンに立つ

その話の続きは長くなるので割愛するが、それ以降、Q太郎が日本へ帰国するたびにあちこちのバーで再会しては帰国の乾杯をし、お互いの旅の話や自転車の話でもりあがっていた。そのうち私の家で飲むようになり、夜が遅くなると実家へは戻らずに寝袋とマットを使って床の上で寝ていった。そして翌朝は一宿の恩義として、我が家の小さいキッチンで料理の腕をふるい、みごとな朝食を作ってくれるようになった。

過去にも何度かボーイフレンドらしきひとが泊まって料理をしてくれたこともあったが、ひとり暮らしの長いわたしは「ありがとう」と思うと同時に、ひそかにそういうひとたちの、素材の雑な扱い方も皿の洗い方も「俺の料理はうまいだろ」を押し付けてくる感じも、ただ不愉快にしか感じられない「他人と共存できない女」に成り下がっていた。けれどQ太郎は違っていた。Q太郎はプロだった。お料理の手際よさも、行き届いた片づけも、もちろんお料理そのものもとてもおいしくて、私ははじめて「一緒にキッチンに立つって楽しい」と思えるようになった。わたしはQ太郎が料理しているのをただみているだけだったけど。

Q太郎が日本に一時帰国して東京界隈に立ち寄るのは年に数回のことなので、それ以上仲良くなることも親密な間柄になることもなかったが、また来てほしいな(またご飯つくってほしいな)と思うようになり、SNSを通して近況を報告したり次にあう予定などをやりとりしてコンタクトを取り続けていた。そんなこともあって、休職した際も近況報告のひとつとしてQ太郎にもざっくばらんに打ち明けたのだった。

Q太郎はすぐに電話をくれた。ここ最近親しい友人との間でもテキストコミュニケーションが当たり前になっていたので、声にコミュニケーションには改めて新鮮な感覚を覚えた。

「メッセージみてびっくりしたよ。テレワーク期間中は楽しそうだったし、ついこないだもこのままテレワークが続けられそう、って言っていたのにどうしちゃったんですか?」

緊急事態宣言下での週末クッキング

昨年、世界各国各都市で予測のつかないスピードで次々とロックダウンが始まっていたころ、そのすきまに滑り込むようにしてギリギリ日本への帰国を果たしたQ太郎はしばらく自身の実家に身を寄せていた。
わたしは緊急事態宣言がだされてすぐにテレワーク勤務となり、ほぼ毎日自宅で仕事をしていたが、なにぶん今まで平日の朝はパン、昼は社食、夕飯も社食といったレベルの食生活だったわたしは、当然毎日毎食欠かさずご飯を作ったことなど一度もない。テレワークは大歓迎だったが、その分食生活がひもじいことになっていき、代わり映えのしないワンパターンならくちん料理を口に運びながら「シェフがほしい」と本気でつぶやいていた。すると心の声がもれていたのか、思いがけずQ太郎から「ご飯をつくりに行ってもいい?」というメッセージを受けたのだ。

Q太郎自身も料理もせずに実家にこもっていると気分が滅入る。自転車で遠出もしたいし気分転換に料理をつくりに行きたい、というのだ。断る理由がどこにあろうか。ということでテレワーク期間中の週末はQ太郎が欠かさず我が家へ料理を作りにきてくれることになったのだ。長いことひとりでご飯を食べることに慣れていたわたしは、誰かと食卓を囲むことの幸せを久々にかみしめた。作ってもらったご飯が食べられる、という喜びも相当大きかったが、家で食事をしながらお互いの生き方の話や旅の話、仕事の悩みを話したりする時間がたのしく、もう二人暮らしは無理だろうと思っていたけれど、こういう感覚ならできるかもしれない、と思うようになっていた。しかしその後緊急事態宣言が解除されると、Q太郎はもともとゆかりのあった南の島へうつって新たな仕事を再開したので、緊急事態宣言下の週末クッキングはあっけなく終わりをつげたのだった。

四国へ一緒にいきますか

わたしは電話をくれたQ太郎に、一緒にすごした週末クッキングのあとにおきた上司とのやりとりや休職にいたった経緯をさらりと話した。Q太郎は「声きいて安心した。思ったより元気そうでよかった。本当に壁にぶつかったあとだと立ち直るのにもすごい時間がかかっちゃうから、完全に壊れちゃう前に立ち止まれてよかったね」と言ってくれた。そして自分自身も帰国を余儀なくされ(海外の場合は日本のように生ぬるい自粛ではなく、自宅軟禁になるので海外にいるよりは日本にいるほうがましと判断し、自宅を引き払い車を売って帰国してきているのだ)、南の町で新しく挑戦しようと思っていた仕事ができなくなり途方にくれている。大好きな自転車に乗っても気分が晴れないんだ、だから気持ちを整理するためにもしばらくしたらザックを背負って旅にでようかと考えているんだ、と話した。

わたしはその旅に一緒に行きたいような気もした。だがなにぶん今は気持ちが弱りすぎている。もし歩くスピードがあわなかったら。もし荷物が重くて歩けなくなったら。もし喧嘩しちゃってひとりになったら。もしQ太郎に嫌われてこのあと友達でいられなくなったら。もし、もし、もし・・・誘われてもいないのに負の無限妄想ループにはまり、それに気づいたわたしは考えるのをやめると同時に、Q太郎の存在が意外と大きなウェイトを占めていたことにうすうす気づいてしまった。

一緒に旅へ行くべきかやめるべきかともんもんと悩む日々を過ごしていたが(もう一度いうが誘われてはいない)、その後しばらくQ太郎からは連絡もなく、あー、もしかしたらもうひとりで旅に出ちゃったのかな、ひとりで旅にでて気持ちをリセットして元気になって、またわたしとは違うステージへあがっちゃったのかな、わたしは取り残されちゃったのかな、と勝手に悲観的妄想をふくらましていたころ、Q太郎からメッセージが届いた。

「10日間くらい四国のお遍路にいこうと思う。出発は10月末くらいで東京からでる船で出発しようと考えている。もしそのあたりで予定があうなら一緒にいきますか」

わたしはテキストを読みながら心臓のあたりがざわざわするのを感じた。
これは私にとっても鬱々とした気分を回復させるチャンスかもしれない。このまま家にひきこもって布団をかぶっていても何も始まらない。でももしも・・・ここからまた無限の「もしもループ」が頭のなかで回り出す。

人とともに旅をするということは、ある種の責任感を伴う。街なかならいざ知らず、山やフィールドに向かうならならまずは何があっても自分自身で山林をのぼり歩き、人里へ戻ってこなければならない。お互いの自立が求められるし、最終的にはひとりで判断し行動できるだけの力量がいる。それはQ太郎のメッセージからも読み取れる。
「いきませんか」ではなく「いきますか」だからだ。判断するのはあなただよ、というメッセージ。「行きます」と回答することは「この旅はQ太郎に依存することなく私の責任において行動します」という宣言になる。
はたして今のわたしにそれができるのだろうか。

インドア先生のご提案

たまたま2度目の心療内科受診を迎えたわたしは一応先生に話してみた。
「10日間くらい寝袋やテントを背負った野宿方式で四国のお遍路に行こうと思うんですけど」
「は?野宿ってなに?だれと?そんなの絶対やめて。今はなにもしないでごろごろだらだらしてなくちゃだめよ」

案の定だ。
はじめての診察でこんがり焼けているわたしをまじまじとみつめ、開口一番「どうしてそんなに焼けてるの」と聞いてきた先生はインドア派。「私とは真逆だね」と診察前にひとこと言われた。それは「わたしはあなたが理解できません」宣言をされたようなものだった。
だが、その先生のいうこともわかる。たしかにひとの2倍も3倍も責任感が強すぎたわたしは、その性格もあって仕事をやりすぎてきたことは否めない。責任感や義務感といった感情は全部忘れてだらだらテレビみたりゴロゴロしてて、という処方は正しかったし、休職前に予定していた遊びもすべてキャンセルしてなるべく時間を気にしたり周囲のひとに気を配るような場所へいくことを避けていた。

ただ、ここで先生にダメと言われたからという理由で野宿旅をやめるという判断はしたくない。決断するのはあくまでわたし自身でありたい。でないと後悔する。そう確信した。
そこでわたしは、「いやあ実はそのひとがちょっと好きなひとでぇ〜、なかなか会えないしー」みたいなことをいって先生に交渉をはじめた。
先生は、なんだオトコか、みたいなニュアンスである程度理解を示してくれたが、なら東京にきてもらえばいいでしょ、とか四国じゃなくたっていいじゃない、箱根とか山梨とか、なにかあったらすぐ家に帰れる場所にしてよ、とかいろいろ注文をつけてきた。東京や箱根じゃ意味がないんだよ、と心で反論しつつ、うーん、とあいまいな態度をしていたら「じゃあせめて10日はやめて、2-3日くらいにしてよ。それでももし気持ちが不安定になったらそれもやめてすぐ帰ってきて」という提案をしてきた。
たしかにそれはありだ。Q太郎は背も高いし体格もよい上、体を鍛えている。なにより若い。わたしがついていけない可能性は大いにある。10日間やりとおすのではなく、無理だと思ったところで潔く撤退しよう。
先生の提案に合意をし、わたしはその晩一緒に旅をするとQ太郎に告げることにした。

※写真はネルソン郊外のマウンテントレイル(ニュージーランド)

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