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すべての女性に花束を。

男性優位のザ・ニッポン企業で働いてきたからだろうか。ジェンダーギャップ問題についてはついつい熱く反応してしまうところがある。

あまり熱くなると「フェミニスト」だの「ヒステリック」だの言われかねないと、ついお茶をにごしたり、とはいえ男のひとも大変よねとか言ってひよってしまうときもある。
でも今日はやっぱり言っておこう。女性は生きるのが難しい。そして女性の生き方はかっこいい。

女性社員が社会で受けた洗礼

社会にでるまであまり女性の立場だの役割だのといった問題に意識をむけたことなどなかった。

超氷河期とよばれた就職活動中も、「女性も第一線で仕事をするんだ!」というむりやり持たされた志の意識下には、それでもお茶をいれたり、事務や裏方の目立たない仕事をひっそりして数年したら結婚でもしてやめるのだろう、という鈍い感覚がこびりついていた。

しかし男性と同等に働く総合職として入社したわたしたち女性に求められた仕事は、事務仕事や訪問客へのお茶入れなどだけではすまなかった。

上司の飲み会には毎晩のように呼ばれ、カラオケの席でシリを触られ、接待では得意先にキスをせまられたり、となりの部の上司はご飯をご馳走するといいながらホテルにつれこもうとしたり(満室だったので無事コトなきを得た)、そんなエピソードは枚挙にいとまがない。
男性の同僚に聞いたことはないが、彼らも同じような経験をしていたのだろうか。

こうして男性社会で働くことの洗礼を受けながら、徐々に女性の立場というものを認識し、我々女性はマスコットでもなければ男性のサポート役でもなく、自立したひとりの働く女性として男性社員や男性の得意先と対峙するようになる。
「女にしてはよくやる」という上から目線のほめ言葉にきれ、男性側の土俵に立たされているけれど、わたしたち女性は男性の代替人材ではないという意識を強く持つようになった。

そういった自らの意識変革は社会で働くなかで築いていったものもあるが、女性の同僚や女学校時代の友人、そして多くの著名な女性たちからも少なからず影響をうけてきた。

シンデレラストーリーのうそをあばいたダイアナ妃

1997 年、社会人として働き始めたその年の夏英国のプリンセスダイアナが事故死した。

女の子の理想のように語りつがれてきた童話シンデレラを体現した女性のあっけない最期に、わたしはなんとも言い難いむなしさを覚え、泣いた。

英国王室に嫁いだときのテレビ中継の映像を今でも鮮明に覚えている。
そでの大きくふくらんだ乳白色のウェディングドレスに身をつつんだ彼女は美しい毛並みの白馬がひく馬車に乗り、プリンスの隣に座って静かに微笑んでいた。彼女の写真集を買ってもらい、夜な夜な眺めていたりした。

でもシンデレラの続きは決してわたしが思い描いていたようなストーリーではなかった。

最高のゴールと思えたプリンスとの結婚は残念な結末を迎え、彼女は夢物語に自ら終止符を打った。
その後彼女はガラスの靴をスニーカーに履き替えて、平和活動や慈善活動に身を投じていく。そして王子に選ばれるだけの立場から、自分で恋人を選びロマンスを楽しむ立場へと変わっていったのだ。

シャツとチノパンでアフリカの大地に立っていた彼女の映像は、ドレスに身をまとっていたころよりずっと美しく輝いていた。
王子との結婚生活より自立して生きることを選んだダイアナ妃に、わたしは女性の生き方についてぼんやり考えるようになった。

「できちゃった婚」を「授かり婚」に変えた安室奈美恵

同じ1997年、日本のスーパーアイドル安室奈美恵が結婚と妊娠を発表、そして休業宣言をした。

まだ年端もいかぬあどけない彼女のすがすがしいまでの妊娠報告にわたしはテレビをみながらとてつもない衝撃をうけていた。

当時まだ残っていた根強い貞操観念から「できちゃった婚」なんて相当ネガティブな印象だった。

できちゃった婚は少なく見積もっても確実に50%は男性に起因するのに、なぜか女性ばかりがふしだらだと烙印を押され、親には世間に顔向けできないと泣かれ、腹の目立たぬうちに結婚を、なんて、女性ばかりがそんな後ろめたさを背負わされていたように思う。
なかには、つらい決断をせまられた女性もたくさんいたはずだ。

しかしそんな世間の空気とは裏腹に、安室奈美恵はとても幸福そうに妊娠を報告し、そして歌手として絶頂期にあったキャリアをあっさりと辞め、子どもを産み育てる道を選択したのだ。若干二十歳という若さで。

あの「できちゃった婚は恥ずかしい」という世間体、女性だけが浴びていた冷たい視線が少し優しくなったのは、あの安室ちゃんの懐妊からではないだろうか。
「できちゃった婚」という蔑みを含んだ言葉が「授かり婚」や「おめでた婚」いう祝福をしめす言葉にかわっていったと記憶している。

そして一年後のNHK紅白歌合戦で彼女は鮮やかなカムバックを果たす。

その変わらぬスリムな体型と変わらぬ声量で何事もなかったかのようにステージにたちキャリアを再スタートさせた彼女に、わたしの古い価値観は完全にやぶられた。

世間様の「普通」にしたがう必要はなくなった。

結婚や妊娠が女性のゴールではなくなった。

そして結婚・妊娠してもキャリアを再開することが普通の選択肢になったのだ。

わたしは特に安室ちゃんのファンでもなんでもなかったけれど、当時の女性たちに新しい価値を示してくれたこの一件は、わたしにとっても忘れられないエピソードになっている。

ガールパワーを炸裂させたアスリート伊藤みどり

1980年代の女子フィギュアスケートといえば、とにかく美しさと芸術性が高く評価されてい時代と記憶している。

カルガリーオリンピックでカルメンを演じ、氷上をスペインの舞台と変えたカタリナビット(東ドイツ)の妖艶な眼差しには、子どもながら圧倒され、これが女性の価値か、となんとなく感じていた。今のことばでいうなら「女子力」を感じていたのかもしれない。

1992年の冬のことだ。
受験生だったにもかかわらず、勉強ほったらかしでみていたアルベールビルオリンピックに伊藤みどりが登場する。

身長も低く、手足も海外選手たちと比較したら長くはない。ちんまりしていて芸術性にも欠ける。ただ、目をみはる高さで跳ぶジャンプ力が群を抜いていて、「女子力」では比較できない武器をもっていた。

しかしフリーの演技冒頭で、日本国民全員が期待していたであろうトリプルアクセルに失敗する。
わたしたち家族もテレビの前で「ああっ」と悲鳴をあげた。

難しいジャンプに一度失敗したのだ。メンタルもきつい。もう一度跳ぼうなんて思わないだろう、わたしなら跳ばない。そう勝手に思いながら中継をみていた。

ところがそんな私の予想を裏切り最後に彼女は最後にもう一度ジャンプに挑み、ダイナミックなトリプルアクセルを成功させたのだ。

当時のオリンピックは個人のスポーツ大会ではなく国の威信と国民の期待がてんこもりで選手にかけられていた。舞台裏では大失敗など許されない、そんな空気もあったはずだ。

それでもトリプルアクセルに跳んだ彼女のはちきれんばかりの笑顔が、深く心に刻まれた。

芸術性がなかろうと、手足が短かろうと、氷上で彼女は、失敗してもいいからやりたいことを全力でやりきったという満足感に満ちていて、圧倒的な輝きを放っていた。
そして演技の美しさではなく技の切れ味で彼女はメダルを勝ち取った。

失敗してもチャレンジをした伊藤みどり姿に、当時受験勉強にあけくれていたわたしはとてつもない勇気をもらい、励まされた。そして伊藤みどりから「女子力」とは違う、真の「ガールパワー」の強さを感じとったのだ。

全ての女性に勇気という花束を

後輩たちのためにロールモデルになれ、という発想はあまり好きではない。ロールモデルはなろうと思ってなるものではないし、そういう責任を背負って頑張ってしまっては自分らしさを失いそうだ。

でもわたしも気がついてみると、こうして世間の声を気にせず、自らの道を信じ、ただ一生懸命取り組んできた女性たちからたくさん学んできていた。いつか自分の生き方も後輩の女性たちにとって小さなヒントくらいになれたらいいと思う。

まだまだ女性が全身全霊で輝ける社会にはなっていないけれど、そのなかでひとりでも多くの女性たちが世間体や空気で決められた役割を軽やかに脱ぎ捨て、笑顔で自分らしく、自分の決めた道を自信をもって歩いていってくれたらと思う。そしてわたしもそのひとりでありたいと思う。

3月8日は国際女性デー。

すべての女性に花束を。


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