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悩んだ時に使えるアート術


昨晩、9歳の娘が、「学校よりダンスレッスンの(場の)方が楽しい。ありのままの自分になれる」と言った。「ありのまま”ってどんな感じ?」と聞くと、「自分の中の自分みたいな感じ。学校の自分は素直なことは言えない。」と言った。

自分のことを客観視できている娘に感心した。

外界に向けて存在する自分と、内側の自分と、既に、2人の自分を感じている。
今後はその2人の自分とどう折り合いをつけていくか、バランス感覚を身につけて欲しいと願う。


客観的に自分を把握する能力を磨く

悩む渦中にいる時、そこから中々抜け出せない時の状態を、自分なりに分析すると、大抵、視野が狭くなっていると感じる。
視点は常に自分目線で、状況、他者(悩みの対象や関係する人)、一般的な見解、客観的な自分に目を向けておらず、ずっと同じ気持ちの渦の中にいるようなイメージだ。

視点が常に自分だから、思考も広がらない。

例えば、夫婦喧嘩をした時、中々折り合いがつかない場合は、ほぼ自分目線の話に終始している。

私の気持ちをわかってくれないとか、私はこんなにやっているのに(私の状況を理解していないじゃないか)とか、普通はこうだとか思いながら、その“普通”が、自分の生い立ちから育まれた価値観の話だということに気がつかない。

それを、少し、目線を変えて、相手の立場を想像してみる、相手の価値観を想像してみるなどして、相手の目線に立ってみる、あるいは状況を俯瞰し、第三者の目線を描いてみるなどすると、途端に、自分の言い分が必ずしも正しいとは限らない、、ということに気がつき、まず気持ちが変化してくる。


自分はこうで、相手はこう(だろうという想像)、状況はこうと客観視できることが、渦中から抜け出すポイントだと私は考える。

先ほどの例でいえば、夫は何を当たり前と思ってそんな風に言うのか…
なんて考えるとすれば、彼の当たり前の価値観が育まれた環境を想像する。
義理の母親との関係、義理の父親の考え方、しつけの仕方まで想像を広げる。

あるいは、仕事を終えて帰宅した後の夜の言い争いだとしたら、今日の仕事はどうだったのか、お客様とのやりとりがスムーズではなかったり、上司に何か嫌なことを言われたり、部下に悩まされた一日だったかもしれないと言う所まで想像が及んでいるだろうか。
その可能性が頭によぎるのであれば、後は”思いやり”の出動。議論は議論として、別のタイミングでする、という選択肢も出て来る。

状況を想像するとは、そういうことだろうと思う。

人はどんな状況で、誰にどう言われるかで、同じ言葉一つの受け止め方も変化する。


自分は自分、他人(ひと)は他人(ひと)のバラエティを知る

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人間は千差万別、と頭ではわかっているが、真にそう思えることは案外難しいことだと私は思っている。

つい、問題に対して正しいことは一つで、”これが正しいのだから、育ちとか価値観とか考え方は関係ない、誰にとってもこれが正しいのだ、私が正しい ”、なんて思いがち。

でも、当然、正しさだって、単一ではない。

私はロンドンに4年近く住んで、日本人女性の国際結婚カップルを沢山みた。
イギリス人始め、スイス人やフランス人、中国人と様々だが、その夫も、どこかの国と国のハーフだったり、クォーターだったりする。
そうすると、大前提として、夫(の国で)は何が当たり前で、どういう価値観を持っているか、説明してもらわないとわからない。


言葉で説明してもらったら、“そうなんですね。わかったわ。”となり、一旦受け止めることになる。

その考えを捨て去るように強制したり、日本人的な考えや常識で生きていってくれと強制するようなこともないだろう。
どこかで折り合いをつける。
バーバルコミュニケーション(言語)により折り合いをつける。”察してね”とはならない。

本当は、“その人自身”が持つ価値観であったり生き方だったりして、それを、“そのお国柄”なんて捉えるのは大げさだということを、私たちはわかる。

だけど、国が同じだと、なぜか”察して”と思ったり、“その人”の価値観や生き方を聞こうとしなかったり、尊重できない、という自体に陥りやすいように思う。
そういう折り合いをつけるプロセスを踏まないと、やはり他人同士が一緒に暮らすのは我慢が多くなり、悩みも解決しないように思う。

実際は、家庭(育った環境)が異なるとは、国境をも超えそうなくらいの“違い”があるようにも思える。

でも、そう思っている人は少数派かもしれない。

”どうせ変わらない”と半ば諦め、相手のことを決めつけたり、その関係や状況に甘んじて何年も同じ関係性のまま我慢するケースをよく目にする。

もっと良い関係になる、もっと生きやすくなる、人生はもっと楽しくできるはずだ、私はそう信じて止まない。

”自分は自分”、”他人は他人”と思えるのは、沢山の他人を知るからだ。

名称未設定のデザイン (19)

では、どういう時、同じ人種、同じ国でも、人はこんなにも違うのかと感じることができるだろうか。日常的にどんな機会を持てるだろうか。

それが、アート観賞だと思う。
同じモノを見て、どう思い、どう考え、どう言葉にするか。
そのバラエティを知ると、自分が浮き彫りになる。

自分を客観的に理解する機会や、自分の個性を出すことが許される場所は案外日常にはない。

小学生の子どもでさえ、既に、協調性を身につけ、場や相手に合わせて過ごしている。

“他人は他人”と思えること、自分を客観的に観察し、感覚を言葉で表すこと、どちらもそれなりの場数が必要で、経験を積めば積む程、生きやすくなるのではないかと思っている。

アート作品を見て、何となく好きだと感じたり、嫌悪感を感じたり、無だったりする時、なぜそう思ったか、自分の感情の根拠を探したり、自分の感情を言葉にすることは、慣れないと難しい。

ましてや、それを他人に伝えるために言葉にするとなると、短時間で、適切な言葉を選び、短時間で発表するスキルが必要になる。

一緒に観賞し、対話するのは、他人の感性や人生を垣間見るようで非常に興味深いものなのだ。

“正しいこたえ”のない世界を楽しむのには、アートがいい。

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