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「書くべきだから書く」も、「書きたくなったら書けばいんじゃない」でも浅かった。 自然発生的な「書く楽しさ」「伝える喜び」を目指すプロセス

”今日も書かなかった”
と思う日々をかれこれ何日過ごしたか、数えた。

54日間。

毎日、”書けなかった”と自分を責めたり、嫌気がさした。。という程、後ろ向きでもない。
「書きたくなったらでいいや」という割り切りも、なかったわけでもない。

でも、脳内ToDoリストから、”noteを書く”todoが消えることはなく、時々手帳の”今日の予定”に書く込むこともあった。
なぜなら、私には書く目的がある。

目的1
アートは人生を面白くする、それに役立つと言うことを伝え、興味を持ってもらいたい

目的2
集客(アートのことを楽しみたい、知りたい方が、私の講座に来てくれたら、尚、嬉しい。noteを通して、”わたし”という人間を知ってもらい、私から習いたい、一緒にアート時間を楽しみたいと思ってくれたら、最高)
目的3
認知度を広げる(国宝伝道師Tomokoの存在と何をやっているかを知ってもらう、アートや私のやっていることに興味を持ってもらう)

自分が売り物、講師としてやっていくなら、アートを広げたいという志があるなら、書くしかない。
”書かない”という選択肢はない。
やって当然の世界。


みんな悩む??


私の周りにいる起業した人、個人事業主仲間も書くことに悩んでいる(いた)し、note読者の中にも、同じ悩みを持つ人が沢山いることも知っている。

・ネタがない
・自分がこんなこと言っていいのか
・恥ずかしい


私の場合は、そんな気持ちも無かったわけではないが、第三者の目を気にする程に、今、読み手がいるわけでもいないしあまり気にならなかった。
上記のようなことに悩んでいる方は、コピーライターのさわらぎ寛子さんのnoteをフォローするのがおすすめ。

私はさわらぎさんに多くを習ったが、上記のような悩みであれば、さわらぎさんのnoteを読むだけで楽になり、書ける勇気を持てるに違いない。

私の持つ抵抗感は、上記とは違う何か。
その何かが、何かわからないから、対策もできず、気の持ちようも変えられず、一向にスッキリしない。


書きたくない、書けない状態が続いていた。

文を習い始めた当時、一時的に書きたい熱が高まり、書いていた状態を思い出すと、今の状態はちょっとスランプみたいだった。
身動きできないような(あまり書いてきてない割に、すぐにこのスランプ状態に陥った)。
私の場合、書く行為を”楽しい”とは思えなくて、書く原動力とモチベーションは、上記の目的になる。

それでも動けないのだから、私の中に、どんなブロックがあるのか?
書かない日々の間ずっと、考えるともなく、考えていた。

余談だけど、1万人程の起業家を支援した方の記事を読んだ。
女性は、違和感やモヤモヤした抵抗感などを感じると、動けなくなる人が多い。
男性は、売り上げ目標を掲げると、それを目指してやるべきことに向かって動ける、、だそうな。
完全にわたしは、その人の言う女性タイプだ。

とにかく書くことは、私にとって難しい。
沢山、”書く”ことに関するインプットもした。
・文章の書き方系
・伝え方系
・売れる系
・僕、私は、こう書いてる系

文章は起承転結だよな、、なんて、国語を意識したこともあった。
書くことに慣れてないから、言葉選びや表現の試行錯誤で、物凄く時間を取られる。
書くのにはとてもエネルギーも要する。
時間と気力の両方が揃わないと書けないのは事実だが、書きたくない理由ではない。

そういうテクニック的なことは、数で鍛錬するのみと思うし、何より私はその手前に居る。


結局2ヶ月間内省して、書きたくない理由がわかった。


私の書きたくなかった理由。


日常に起こるコト、自分が小さく気がついたコト、考えたコト、私の感情、
そういうちょっとしたコトを、書く目的で、その出来事に着目し、クローズアップする。

書く行為は、一つ一つをつまびらかにすることになる。
その行為自体が、私には非日常で、とても大げさに感じた。

おまけに、書いたものを読むと、それもまた何か仰々しい感じがした。

何か違う。
私の人生観とズレる感じがする。

「人生の大抵のことは、後から考えれば笑って済ますくらいのことだよね。」

「笑って済ませられないことでも、それも過去になってしまえば、そればかり気にしてても暗くなる。自分のためになる解釈をして、今を快活に生きよう」

「原因と結果の分析も大事だけど、あんまり理詰めもね」とか。

そんな風に思うところがあって、だからこそ、日々の出来事を書くということに抵抗を感じた。

”書くとしたらこんなこと”と思うネタ達は、私にとって、然程大したことでもなく、日常の些末なことなのに、
それが文字になると、なんだか大げさになってしまう。

客観的に自分で自分の文を読んで、「語ってるな〜」なんて思ってしまうのだ。

さっき、書いた”人生観”という表現だってちょっと大袈裟に感じている。
それが全てでもなければ、そう思わないことだってある。
だが、わたしの脳内語録では、”今は”それがフィットしてしまうから仕方がない。


語彙力、文章力の問題と言えばそれまでだし、本当にそれに尽きるのかもしれない。
その証拠に、小説家のエッセイなんて読むと、深刻そうなこともオモシロ可笑しく書くからさすがのプロだと唸る。

素人の私が書いたものは、なぜか真逆の印象を与える。
日常の些末なことが、仰々しく見え、ちょっと考えたことがやけに理屈っぽく見える。

私の体験から感じた実際の感覚と、書いたものから受け取る印象のズレが、何か嫌悪感というか、自分じゃない感じがして嫌だということが、私が書けなくなっていた理由だった。


例えば、ちょっと苦しかったことを書いてみたり、ちょっと嬉しかったことを書いてみたりすると、言う程でもないのに、文字が一人歩きするみたいだ。
どんどん歩く。
そんな気がしていた。

でも、


それなら...

自分は知っている。
その出来事が自分に取って、どれほどのモノだったか。
どれほど小さくてささやかな事も、自分にとっては大きい発見だったことも、自分の中ではわかっている。
違和感は、本当の自分の感覚を知っている、自分にしか感じないものだ。
だったら、気にしなくていいのでは...。

結局、読み手の目が気になっていたのかもしれない。

だとすれば、どうしようもない。
”文章は読み手のモノ、読み手の自由”

書いていく内に、私にも文章力がついて、感覚とフィットする言葉が書けるようになるかもしれない。

一旦、書きたくない理由に気がついてみると、「何だ、そんなことか。大丈夫じゃん。」と、いとも簡単に”嫌だ”という束縛から解放された。

実際、思ったり考えたりすることって、現実、脳内では、起きたことに対し分析したり考えたりしながら、最終的に解釈をする、結論を出すことで、「直感でやりました」とか言う話より、理論立てた動きをしている。
文字にするとやけに理屈っぽく見えるのも当たり前だ。

そうやって、理屈っぽく見える自分にも納得し、ズレを感じることにも”気にしなくていっか”と思えた。


書くことは、自分を文字で表現する行為だ。


だから、日常の些末なことであれ、書いたモノは自分の分身で、語彙の少なさも、どの言葉を選択するかも、全て自分そのもの。

私の性格も価値観も思想も、毎日の生活に現れる。

その集合体が私という人間で、私の人生そのものだから、結局、毎日の些末なことを書くことでしか、私を表現する術はないんだと結論付けた。


自分の思う自分は、結構、楽観的。
色々考えるけど、あまり悩みはしない。
嫌なコトとか、辛いコトとか、笑ってやり過ごして、ひらりひらりとかわしながら生きていくのもいいじゃん、と思っていたりする。
今回はそれが”書くコト”を邪魔したわけだけど、

一人、感じたこと。
うっすらと思ったこと。
小さい気づき。

そんな日々のあれこれを、
もし、書くプロだったら、面白く伝えたり、学びとか教訓に変換できるようなことを、
今の私の力量で書くのも面白いに違いない。

だって、自分を表現するって、アートか、言葉か、音楽しかなくて、アートか音楽を選べないなら、言葉しかない。

(仕事とか生活とか人生そのものも、自分を表現していると思っているけど、この文脈ではそれを含めず)

たかがブログ、されどブログ。

日記みたいに気軽に書く人もいる中、こんな風に捉えるのも私の個性だろう。
よく、真面目、って言われるのはこういう所だろうなーと、この投稿にも気恥ずかしさを感じる。


書くことで誤解されるかもしれないけど、きっと私にとって、良い誤解もあり、悪い誤解もあるだろうから、一長一短。

私は普段から、嫌なこととか夫婦喧嘩のタネとか、自分の中でケリがついた途端、忘れる傾向がある。
解決したそばから忘れていく。
その点、”書くこと”をテーマにした私の葛藤は、このnoteに残る。
日記のように、がんばって書いた割に一度も誰にも(私にも)読まれないものとは違い、知らない人が読んでくれる。
私の2ヶ月の葛藤を。
noteって凄い。

カッコよく表現すると、これも感情の昇華かもしれない。

ネガティブな感情を放っておくのは苦手で、いつも、内省してとことん突きとめる。
正体をあばき、必要に応じ読書したり、他人に聞いたり、映画を見たり、プロに教えを乞うたり、気を紛らしたりしながら一人色々考えて解決の道を探る。


”書く”ことについて、一歩前進した。

気持ちが良い。

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