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島国にエリートは育たない=島の規則

アカデミズムでも
スポーツの世界でも
世界へ流出しがちなエリートたち…
なぜなのか?
生物学で答えを明快に説明した
本川達雄著
「ゾウの時間 ネズミの時間」は
めちゃくちゃ面白い🤣

島の規則」がその説明を与えてくれる

に生息する
大きい動物は
小さくなり
小さい動物は
大きくなる。

これを生物学で
島の規則」という

理由は
島では
大型動物の捕食する動物が限られているから

例えば
一頭の肉食獣には
100頭の草食獣
が必要
でも
島に
草は10頭分しかない…
捕食者は⤵️
草食獣 以下 小さき者は⤴️

これは人間でも同じで

島国では
出る杭は打たれる
エリートのサイズはさくなり
庶民のスケールはきくなる」

つまり
捕食者=エリートさえいなければ
小さき者は
スピーディに変異しながら
集団平均へと集約されやすく
生きやすい

移動距離も少なく
地理的に隔離されているが故の密室性ともいえる

反対に

大陸では
スケールのでかいとてつもないことを考えたり
常識はずれのことをしても
周りから白い目で見られたら
「よそに逃げていけばいい」
天才や大型が生まれやすい
流動的環境がゆえだ
その代わり
大陸では
「スーパーのレジにしても…あきれるほど対応がのろいし不適切」

ここにおいて
コープの法則
を紹介する必要がある

大陸において
確かに
小さい者はゾウのようにどんどん大きくなれる
可能性を秘めており (コープの法則)


アメリカンドリーム
とも言える世界が
存在する。
しかしながら
対象的に
小さき者は捕食者に食われやすい
知的レベルの格差の大きい
残酷な環境でもある。

しかし今度は
大陸でも
大きくなりすぎると
小さく戻ろうとする生物学的力が働く
(島の規則)
ゾウも好き好んでデカいわけでも
ネズミも好き好んでこぢんまりしている
わけではないそうで
できれば「普通」の大きさに戻りたい

グローバリズムが浸透すると
ナショナリズムが過激化するのに同じで
世界が一つへと
大きくなると(コープの法則)
It‘s a small world
小さな世界=
地球という一つのとして
世界は狭くなり
集団=平均が座覇する
密室性の高い環境が育ってくる

トクヴィルの「アメリカン・デモクラシー
が思い出される。
フランス革命🇫🇷
そして
アメリカ独立宣言🇺🇸
貴族(=捕食者)制度を廃止して
平等であることへの強い思いが反映された
アメリカ社会
その色を
みんな同じの 平均的な
「グレー
」だと評したトクヴィル

そこでは
多数派=waspが
少数派=黒人を奴隷とする無慈悲な差別が横行していた
新たな捕食者は確かにドリームの頂点となり得るも
平均性が力を持つ民主主義社会においては
少数派を
島国同様に廃絶しようとする力が働くからである

世界は近く
小さな世界となり
世界は
ひとつ
ディズニーのようなの国のはずだった

トクヴィル曰く
その世界は
平等というグレーの世界
そんな
グレーの世界の
グレーがグレーであることは
グレーが日常の「生活世界」である人には
認識できない(フッサール)
グレーでない世界を見た人にしか
グレーであることを認識できない
遠い世界なのだ

「智恵子抄」の著者 高村光太郎
「私自身は東京に生れて
東京に育つてゐるため
彼女の痛切な訴を身を以て感ずる事が出来ず
彼女もいつかは此の都会の自然に馴染なじむ事だらうと思つてゐたが、
彼女の斯かる新鮮な透明な自然への要求は
遂に身を終るまで変らなかつた」

と「智恵子の半生」で言っている

本川達雄氏が
ゾウの時間 ネズミの時間」の最後の最後に
書かれた箇所
を読んでみよう

本書を執筆の途中で、沖縄から東京に引っ越した…
沖縄からの飛行機が近づいていくと、東京方面に灰色のかたまりが浮いて見える。これに突入すると、そこが羽田だ。タラップを降りて見上げる空は、えもいえず、もやーっとしている。確かに東京には空がない空を見上げる気にもなれない。空を見ていた目が行き場所を失い、自分の頭の中を見つめはじめる。生き生きとした自然に接していないと、人間はどうもすぐに頭の中を見つめはじめ、そして抽象的になっていくもののようだ。抽象的になりはじめると、とめどなく思考のサイズは大きくなり、頭でっかちになっていく。都会人のやっていることは、はたしてヒト本来のサイズに見合ったものだろうか?体のサイズは昔とそう変わらないのに、思考のサイズばかり急激に大きくなっていく、それが今の都会人ではないだろうか。体をおきざりにして、頭だけどんどん先に進んでしまったことが、現在の人類の不幸の最大の原因だと私は思っている。

本川達雄
「ゾウの時間 ネズミの時間」


そして
スティーヴン・ホーキング
彼の最期の著書の
最後の最後で
同じことを言っているのだ

顔を上げて星に目を向け、足元に目を落とさないようにしよう。それを忘れないでほしい。

—『ビッグ・クエスチョン 〈人類の難問〉に答えよう』スティーヴン・ホーキング著

生き生きとした自然=空には限界がない
宇宙=未知は
無限の想像力を掻き立てる

「人間の真摯な努力に限界はないはず
ホーキングが最期の著書の
最後の章の
最後に遺した言葉が「これ」なのだ

あんな難しいことばかり言って来た科学者の
最期に遺したい言葉が
こんな簡単なこと

ではなくて
これこそが
最も
難しい 
こと

ユクスキュルが発見した環世界という
自然=多種多様においては
時間も空間認知も多様
歩く速度も 喋る速さも
喋る言葉も
主体が意味を与えて構築した世界認知も
異なる
知覚限界=我々を取り巻くシャボン玉
に我々は阻まれている

それは
シラーが「理念(Idee)」
ゲーテが「自分でも知らずに」持っていると呼ぶ「理念」
=「原型」
たとえば
植物が植物であるために
植物が植物であるが故に
存在する理念
であり
植物にはその理念は見えない
ヴィトゲンシュタインの「家族的類似性
(古田徹也「形態学としてのウィトゲンシュタイン哲学――ゲーテとの比較において」in「これからのウィトゲンシュタイン」)

つまり
見えないシャボン玉の壁に隔てられながら
ルールの相容れない者同士が
知覚限界において
言語ゲームを繰り広げるのは

超えられない限界
限界の無限界性(不可知性)
を無限界に超えるため

想像力を用いて
自らの想像力を戒めるため

汝自身を知れ」
「度を越すなかれ」
デルフォイのアポロン神殿の格言

とは
決して
超えられない格言
できない注文
なのかもしれない










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