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悪への自由

 「アウシュビッツでは、だれもが善になるか悪になるか自分で決めることができたということである…そしてこの決定は、ユダヤ人であるかポーランド人であるかドイツ人であるかに決して関わりがなかった。またSSの隊員であることにすら関わりがなかった。」とアーレントは言うが本当にそうであったのだろうか。(ヤング=ブルーエル アーレント伝)アウシュビッツに「実在的で生き生きとした自由」「善と悪」を自ら「選択」する自由があっただろうか。シェリングによると悪を選択する自由の行使にこそ「人間的自由の本質」があるのである。ニュートンが影を光の欠如と捉えゲーテが反論したように、シェリングは悪をプラトンの伝統のように善の欠如としてはとらえてはいない。ハイデガーが「シェリング講義」で説明したように「悪」とは「人間が自由であることの一つの在り方」、つまり、「自由とは悪への能力」なのである。(ハイデガー シェリング講義 木田元他訳 新書館 1999 p243、p106英訳;128原典)(シェリング 人間的自由の本質26;25;28;27)

 別に「悪のすすめ」を書こうと意図しているのではない。前稿(「X」)でも論じたように、犯罪とは受苦の他者への投影という倒錯、自身の受苦(Passion)の「身代わり」として他者を消去し他者に十字架「X」を背負わせる作業。生存的には我々が日々やっている「他」を「食べる」作業であり、ことばで我々が日々やっている「犯罪と意識されない犯罪」の延長上にあるもの。(前稿「カヴェル 没落に抵抗すること」参照)「正常な」動物的利己主義―敵対的環境において生存競争に勤しみ自然的に生きる生物の態度―が〈精神〉の力へと高められ〈言葉〉という媒体において倒錯的に自らを表現する。それは暗い衝動ではなく、人間の自由であると言えよう。(シェリング 人間的自由の本質 59;53-4;デリダ パッション参照)

 そんな精神の「倒錯」作用により、本当の悪はマントに覆われ目に見えず「口封じ」されており、本当の善も目に見えないし口外されるものでもない。というのも「語れない」こと(善や悪)は「語られない」。恐ろしい程の犯罪の加害者もその被害を受けた者もその犯罪を語ることはないし、善も可視化、公言された途端、善の地位を失う(善の無世界性byアーレント)したがって可視化され語られる悪とはだれかの「偽善」の「身代わり」、悪には「世界性」隠れた「物語」、別の加害者=悪の存在があるのである。右京さんに何度泣かされたか分からない。サスペンス劇場のエンディングで号泣するのは悪のそんな「世界性」が所以である。加害者と呼ばれる人の受苦(Passion=情熱)に情が動かされるのはそれゆえ、加害者が実は被害者、裏に隠れた犯罪やモラハラがあることを我々が知るからである。つまり、われわれは「見る」べきものは「見えず」「見える」ものからは何も「見えていない」。本来、光も影も単体では可視化し得ない相乗的な同じものの裏表。光の過剰は、闇夜と視覚的、心理的には同じ盲目的効果を生み、「見えない」光は昔は「影」として見られ、「影」と呼ばれていた。(万葉集など参照)
 幸せなカップルがクリスマスライトきらめく街中でキスをしているのを見て、ほほえましく思えるのは自身も愛する人と光輝く聖夜を過ごせる人。愛するパートナー不在の暗いクリスマスを過ごす人にとってカップルの幸せは眩しく映るだろうし、そんな幸せなカップルが別れたと聞いてほくそ笑むかもしれない。そんな光(幸せなカップル)がなければ影(悲しみ)もないのだから。三島由紀夫の「金閣寺」とはそんな美しく完璧なものが「二度と私の邪魔をしに来ないように」自身とおなじところまで引きずり落とし、「支配」し「わがもの」にしようとする「対比や対象の効果」を内包する。(平野啓一郎 群像 2005年12月号)金閣を焼き=他者を引きずり落とすこと「この美しいものが遠からず灰になる」ことは「完璧なものなどなかった」と自身の苦しい現実=コンプレックスより解放されることを示唆するからだ。
 このように「他」を「わがもの」にするとは「食べること」。そんな「自然」における生存原理は精神界では「経済」の交換原理であり、それはまた「政治」と呼ばれ、度を越した「自然」は「虐待」、法を超越した「自然」は「犯罪」と呼ばれる。より多くを食べた者が資本主義の勝利者であり政治においても多数派を牛耳る民主主義の勝利者、「真の民主主義」=社会主義=「反民主主義」=全体主義における絶対者となる。そしてそれを担う道具が「言葉」の倒錯的本質である。ギリシャ神話からシェイクスピア、経済学者マルクス、心理学者フロイトやラカンが描き出した人間界の本質。嘘つきが舌を抜かれるのではなく、真実が舌を奪われる逆説が生じる。エルネスト・ラクラウは「スターリニズムが言語学的現象」であるだけでなく、「言語そのものがスターリニズム的現象」であると指摘している。スターリンのフィアンセはスターリンの浮気を指摘してはいけないという「約束を絶対に破らない。なぜなら破った瞬間、フィアンセでなくなるから」である。(ジジェク イデオロギーの崇高な対象189、324前稿Nothing、カヴェル参照)

 だからといって不貞=自然は許されないのだろうか。夏目漱石はそんなエゴイズム、女に翻弄される「迷える子」(迷子)迷羊ストレイ・シープの分裂を小説の主なテーマとしている。


「悪い人間という種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな善人なんです。それがいざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。」

夏目漱石 こころ28

 かつて叔父に騙された先生はKを騙し、Kは自殺し、そして先生も自殺する。初代三部作「三四郎」(1908)「それから」(1909)「門」(1910)において 「自然」に逆らい、女を友人に譲った男は女の結婚後の不幸を見て再び迷い始める「細君を奪っちまうぞ」と言うか言うまいか「自然の児になろうか、又意志の人になろうか」

「代助は三千代を家に呼び、白百合を沢山買ってきて、生けて待つ『今日始めて自然の昔に変えるんだ』」…「何故もっと早く帰ることが出来なかったのかと思った。始めから何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔の中に、純一無雑な平和を見出した。その生命の裏にも表にも、欲得はなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲のような自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡てが幸であった。だから凡てが美しかった。」

夏目漱石「それから」14-7

 そして自らの「罪」をも「自然」だと認めることができた男だったが、「あんな事」をしたため「自然に復讐(かたき)を取られ」女は病に伏し、(それから)流産し続け、男は大学から追放され「大風は突然不用意の二人を吹き倒す」(門)しかしながら「罪」を犯すのが人間ではあるまいか?自然に忠実に生き、自然に復讐(かたき)を取られる。自然に逆らい愛し合わない男と女が「偽善」で一緒になったがゆえ生まれた2人の「夜叉」による悲劇より美しいではないか?尾崎紅葉の「金色夜叉」のお宮と貫一の物語が最も「非人間的」であり且つ「反自然」、従って被害は人工的に倍増する。人間は自然の一部。自然に寄り添い、自然の中に生き、罪をも「自然」として享受して生きるのが「覚醒した自然」たる人間の崇高さ、悪を精神が自ら「選び」精神がその償いを負う。シェリングの言う「人間的自由の本質」。「金色夜叉」のような「反自然」フェイクの愛に生きるより自然の愛に生きる方が「凡てが幸で」「凡てが美しい」。「精神の忘我」たる自然が「覚醒した自然」として自らの「悪」を倒錯せずに認め選ぶこと、これこそが「人間の自由の本質」なのである。(前稿「X」参照)

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