ドゥルーズ「ニーチェ」:力への意志

「ひとはつねに強い者を、弱い者たちの攻撃から守らねばならない」
                                                   

ニーチェ「 遺された断想」

   ニーチェは何故、強い者を弱い者から守らねばならぬと言っているのだろうか?答えはひとつ。真の善と悪は見えず、可視的な善は偽善、吹聴され意図的に可視化される悪は冤罪であることが多いからである。真の善はアーレントが分析したように可視化した時点で善では既になく、それゆえ真の善人というのはキリストのようなある意味ニヒリスト、彼は罪なくして黙し十字架に架けられる者だからだ。これを昔は「口封じ」と呼んだ。口を封じられるのは「善」人、なぜなら弱い者は「嘘を必要として」おり、嘘とは「彼等の存在条件のうちのひとつ」だからである。(81、139)

「強い者にとって現実の認識が、すなわち現実への肯定が、やむにやまれぬ必然性であるのは、ちょうど弱い者にとって、現実にたいする怯懦が、また現実からの逃避が-つまり理想が-やむにやまれぬ必然性であるのと、全く同じである。」

ニーチェ「この人を見よ」

  つまり、強い者は真実に生き、弱い者はその真実を嘘とするため、嘘と真実が逆転する。なぜなら、苦しんでいる者は苦しみの原因を「外」「他者」に追い求めるからだ。自分こそ誰か悪い人間の悪意や卑劣さの犠牲になっているのだと思い込み、「私は苦しんでいる。それは誰かのせいに違いない」(道徳の系譜学 第三論文)自身に都合の良い物語のなかで激情を外の「人形」=「友人や妻子その他最も近しいひとびと」に向かって吐き出し悪者に仕立て上げるのである。(142)

  こうしてフロイトが「モーセと一神教」で論じたように物語は真実と正反対のものとなる。「人の目を反対側に向け」「あえて何かを語ら(せ)ないように」「先手を打って」「物事を隠すには目立つように偽物を見せておくことが一番」。敵を封じ込めるため、他者を悪者、自身を「悲劇のヒロイン」とした「かわいそうな話」が「無意識的に熱望される麻酔剤」の役割を果たし「言は肉となって」「言語的衝立て」(フェルマン)=「幕屋」を張る。(ヨハネによる福音書1-14)ラカンはこれを「愛のカーテン」として分析しているが他者へと悪の所業を転換することで他者の自己同一性は変容され他者の同一性は死を迎え、同時に本人も自己の悪の所業を他者に転化したため自己同一性の変容を経験し自己も死ぬ。物語=言葉=嘘は「騙り過ぎてはいけない」。解離とは繰り返し嘘の物語を執拗に反復し続けることで真実に戻れなくなること。語りの中で真実がずれつづけるために、自身もずれ続け、複数化、多様化していく中でひとは「言葉の中で死ぬ」、これを「言葉の落とし穴」と言う。

 つまり、真の悪人(弱い者)とは嘘を自身に吐き通し自身が「善」であると完全に自己を騙し得た者。つまり真の悪とは本人も意識化できないレベルの悪。反対に、悪と可視化され悪に「見える」=「捕まる程度」の悪は大した悪ではないのだ。本当の悪とはハーバード大学メディカルスクール心理セラピスト、マーサ・スタウト氏がいうように「泣いて無実を誓う」ような「捕まる程度を越えた知能犯」、偽「善」者による所業を指す。そして、そんな真の悪はその程度が「恐ろしければ恐ろしい程」「信じられなければ信じられない程」語り得ず、人に語っても信じられないことはひとに信じられない。 このような犯罪の「自動安全装置」(アーレント)は加害者視点からは「口封じ」=「完全犯罪」と呼ばれ、被害者視点においては「トラウマ」=「語り得ない」出来事となる。つまり、この世では善人が悪人、悪人が善人として「演じている」ことが多いこととなる。この世が良くならないわけだ。

 つまり、力の本質とは投射(投影)的な「逆立ちした言説」(ラカン)が伝播する諸価値の転換。「偽りの然り」(59)の拡散による他主体の自己同一性の定位への差異化の遂行と他者性の破れ(変容)と言うことができ、それをルサンチマン(心理的傷つきやすさ、憎悪、奴隷)と呼ぶ。ルサンチマンは「自己自身に対する勝ち誇れる肯定」を持たない弱者の「外のもの、他のもの、自己ならぬもの」つまり強者に「対して否という」「裏口を好む」不正直な創造行為なのである。(道徳の系譜学 第一論文)

  このように、フッサールも言及する間主観性に於て誤謬の真実が正当化され、本来、弱者が背負うべき「非」=十字架の代わりに強者=神(他者)が背負わされ、その変容として生み出された「罪なくして十字架にかけられた者」は他者の苦しみや怨恨=生霊(ルサンチマン)を「身代わり」に背負い(憑依され)その者本来の人間的本質が引き裂かれ、「非」「人称」的実在となる。この様な自己犠牲を「身上げ」といい、現在の「みやげ(土産)」の語源とされる。

 対称的に「彼の代わりに死んだ神」=他者のおかげで苦しみから身軽になった人間は「跳躍」し「神なしにすますことができる」ようになり「非」人称的な」「超人」(本来の自身ではない者)=「自分が神に当てはまると主張するようになる」のである。これがニーチェの「超人」であり「神の死」である。(55)つまり、ニーチェの哲学とはいかに小児のように「無意識のうちにドラマが追求され」神=超人の国でマスク(仮面)に戯れられるか(マタイ18章3節、マルコ10章15-6参照)偽りを然りとする「力への意志」の哲学、それがニーチェの哲学である。(55)

  繰り返すが、このように人間の本質の断片が投射的に疎外化された非人称的実在同士の非同一的交換が生み出す「神の死」は同時に「超人」の誕生を意味する。この考察のオリジナルがフォイエルバッハの「神と人」との宗教学的「不等価交換」の考察にあるのは周知のことであるがこの理論はヘーゲルの弁証法による肯定と否定の不等価交換の動的考察を経て、マルクスによる資本主義における交換が生み出す疎外の研究、そして更に他分野へと広がって行く。プラトン的彼岸の理想が此岸にて実現する様はカント以降の哲学が目撃済みであるがそれを言語ゲームとして考察したヴィトゲンシュタインは言語を人間の「世界の限界」と説き,フッサール以降の現象学や分析哲学、言語哲学と続いていくことになる。

  このような言葉による「脱構築」(デリダ)とはラカンの鏡像段階=鏡の孤城=子ども部屋から出られない子どもの「遊び」や「うた」(ドゥルーズ)が生成する「舞踊者の正反対」による「救う反復」(51、70)大人になりきれない子どもの「生霊」が生み出す言葉のマジックであり、子ども(本当は大人)は「言葉」を通してファンタジーに遊ぶ(本当は犯罪)。このような生霊の苦しみが生成する不等価交換の物語はむかしむかしは「呪い」と呼ばれたものだ。他者の苦しみ(トラウマ)は誰かが「骨を拾わざるを得ない」「鎮魂」作業なのだ。(アブラハム&トローク)そろそろお分かりいただけるかと思うが、現在、精神科医やカウンセラーが行っている仕事とは昔は「催眠術師」「霊媒師」の仕事であり、我々が学んでいる「科学的」心理学とはフロイトやジャネによる「催眠」の研究からスタートしたものだ。      
                                      (ドゥルーズ「ニーチェ」ちくま学芸文庫 頁数)

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