ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」

「ゆく河の流れは耐えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」

鴨長明「方丈記」

関係=現象
  埃にまみれ床に転がるひよこを見て、病気で床に臥せている時に枕元に運んでくれた亡き犬や猫を想う。あのとき、美しい景色を一緒に見ようと何度も何度も誘ってくれたあの人はもう存在してはいない。何故あんなに嫌いだった人を好きになり、何故あんなに好きだった人が嫌いになり…と思ったことはなかろうか?あの人を愛した私も、あのとき愛した/愛してくれたその人も、あれ程感動したあの場所も…あの書物も…世界は私の表象、時間と空間における「関係」において存在するものにすぎない。時間の一瞬一瞬は自分の父や母、恋人、過去を殺すと言う形でのみ存在する。(§1)

この世界は「ほかならぬわれわれ自身」である。(§71)

世界=わたし
 ヘラクレイトスは万物の流転を悲しみ、プラトンはそれを「あり且つない」として描写し、カントはそれを物自体に対立させて「現象」=純粋に直観された時空間のなかで生成される抽象的可能性と呼んだ。したがって「ひよこ」を犬や猫の「愛」と解するのも人間の勝手にすぎず、それは「遊んでくれよ」「ごはんはまだか?」という犬や猫の「利己心」の訴えだったかもしれない。そして私たちを取り囲む美しい自然、たとえば小川だって重力に従い「無関心に」透明な液体として動いているだけだ。小川が立てるせせらぎの音や雪の結晶の美しさなど自然の本質においてはただただ「非本質的」(§35)であり、消化、循環、分泌において身体もただただ「盲目的に」機能しているように見える(§23)
  しかしながら、ひとは美しい景色に我を忘れ、その「崇高さ」に言葉を失う。「山も、波も、空もわたしの一部…わたしがそれらの一部であると同じように」(バイロン「チャイルド・ハロルド」3・75)(§34)そうでなければ「夏草や兵どもが夢の跡」などという松尾芭蕉の歌はひとの心を打たないし、平泉のただの草地に多くの観光客は訪れないであろう。「これらすべての被造物はわたしである。そしてわたしの他にはいかなるものも存在していない。」(ウパニシャッド)(§34)平泉の草地は私の感傷、時空間をタイムトラベルした人間の心が抽象的に客観化されたもの。音楽に同じでイデア的「心の状態」(アリストテレス「問題集」Vol.19 )心が「記号」的に客観化された「魂の感動」を模倣した「運動」以外の何物でもないのだ。(プラトン 「法律」Vol.7)。(§52)

無邪気さ=生への意志
 ショーペンハウアーは目的を「持ちながら」「持たない」様に見える人間の本能でさえも「自己自身とどこまでも一致しているただ一つの意志の単一性の現象」(§28)だと表現している。人、動物に比べ、その盲目性が最も高い植物について考えてみよう。満開に咲いている花を見て「恥ずかしくないのか」と思われた方は少なかろうが、植物は最も「無邪気に」その生きんとする素朴な意志を完全に剝き出しのまま「生殖器を自分のてっぺんに掲げて衆目にさらすことを苦にしない」。開けっ広げに「おしべ」と「めしべ」を上向きに目立つように広告し受胎することを希求する植物。「生きる」ことに忠実なその「明るさ」は深く考察してみるならばとても気恥しいさま。「植物には認識がない」こと(§28)「感じたり悩んだりする能力」がないことが生の貪欲さの生生しい表現に繋がっているのだ。(§56)

「生」とは「物質をわがものにしようとする形式相互の闘争」なのだ。(§28)

暗い衝動
  生殖器はこのように「意志」=「生命」の本来的な焦点であるが人間に於いてはその意志が理性ゆえに「多くの認識の衣で蔽われ」「擬装の能力によって包み隠されて」いる。(§28)生殖器の位置、ひとの生きんとする「意志」も「邪気」のない「無邪気な」植物に比較して「見えない」「暗い」位置に配置されている。つまり、人間の「邪気」は「認識を伴った意欲」にあり(§28)その偽装の確率は話し言葉において最も高く(§51)人間は生への意志=生殖関係の話題を最もプライベートなタブーとして避ける。「知識を増すものは苦痛をも増す」(伝道の書1-18)と聖書は書くが、人間に於いては動物本来の「生への意志」の貪欲さが隠蔽される為、自己が自己を食い尽くし自分が自分の食糧となり苦しむ。これを苦悩という。隠し事大好きな人間特有の現象であり(§27)ひとは「意欲の激しい暗い衝動」を持つ生物と言える。(§39)この様に客観として姿を現す表象=現象がカントの「物自体」でありプラトンの「イデア」、現象界は「意志を映す鏡にすぎない」とショーペンハウアーは分析している。(§54)人間は植物に比べ、恥ずかしがり屋、「隠したい」生き物なのである。つまり全ての表象「万物はこの意志が可視的になり、客観的になったもの」であり、「意志のみが物自体」、「客観はすべて現象」と言える。(§28)

人間の「邪気」
 三島由紀夫が…鴎外が…ルソーが…自身の「性」を告白と言う形で告白せず、告白せずに告白するなんて複雑な形をとったのも人間特有の苦悩と創造力ゆえである。「仮面」の「告白」なんて人間にしか書けない。クマノミなぞはもっと明るく近くにオスがいなければメスがオスに変わったり、性転換する動植物は山盛り存在する。従って、人間の邪気とは、明るく無邪気に生への意志を肯定せず、否定し隠す性質、そして更にはその邪気をも「無きもの」としてしまう「認識」にある。認識は「意志にどこまでも奉仕する態勢」をとるからだ。(§27)ここに人間の悪の源泉がある。明るく「生への意志」を肯定せず、生生しい意志を隠し、動植物のような「無邪気」さの欠如=「邪気」をさえ無きものとして隠してしまう。苦悩の源泉は「嘘」=ひとの心中にあるのだ。

 しかし、知識の多い生物は自身の「心中」に存在する「苦悩の姿」まで変えてしまう。(§57)人間はその苦悩の「姿を変え」て「内」ではなく「外から自分の方へ流れ込んでくる」のだと「外的な原因を見つけ出し」「苦痛の言い逃れを見つけ出そうとたえずしている」(§57)これこそ人間の生きる意志=「エゴイズムの最高の表現」ニーチェの「力への意志」でもある。「いささかも自分の利益とはならないのに、他人が損害や苦痛を蒙ることを求め」(§62)「自分が持ちたいと欲するものを他人からひったくろう」とする。「こちらの嘘によって相手に過ちが生じ、その痛ましい結果を見て楽しみ」「他人の意志を否定することによってわたしの意志を肯定することを目的としている」(§62)

不自然=人工=自然
 これこそ「本来の悪の現象」。まさにホッブスが描き出した「万人の万人に対する闘い」(§62)においては「その人が持ち合わせてもいない誠実さをさももっているように世間が信頼するところに彼の勝利の原因」がある。(§62)つまり、生に勝利する人間は不誠実を誠実に見せ、誠実を不誠実に見せることに成功する「不自然」な人間だ。そして、不誠実を誠実に偽装することに成功したひとが呼ぶ「よい人」とは自分が「意欲した目的に好都合」な人間のこと。つまり、不誠実な人を「よい人とよぶ」ことになる。(§65)つまり、「認識の転換」が生成する「記号の交換」が人間に於いては「自由」であり、それはユートピアもディストピアも生成し得る危険性をはらんでいるのだ。(§70、71)「生」=「性」への意志を否定した人間においては全てが「反転する」とフロイトは「本能とその運命」他で分析している。ユートピアとは「どこにもない場所」=「無」=「不」自然(トマス・モア)。ますます人工的に変遷する人間の心の創造物=AI=人工知能とは「ほかならぬわれわれ自身」(§71)。ひとの心はここまで自然から離れたのだ。愛する人と生きよう。そして、愛する人にキスするところから始めよう。わたしたちは動物なのだ。







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