正解のない正解ほど厳しいものはない
分からないことを
分かりたい
から
人と人が対話する。
理解の及ばないところを
理解したい。
理解できないところに
謙虚でありたい
そんな欲望が
科学を
文明を発展させて来た。
そして今
多様性を認知しようとすると努める
相対性
みんな違ってみんな良いの
「ポリコレ」の時代。
何十年前 私のLSE時代のロンドン
WW IIで日本兵に父親を殺されたタクシー運転手に
乗車拒否された私
VS
娘が所属していた数年前の米国の音楽院
黒人差別発言をした少年は即刻退学
「正解」はない
と言われている今
と言う時代
の「正解」は今までにないほどに手厳しい。
反対に「正解」がある
と言われていた時代には
「正解」はそれほどの力を持たなかった。
「正解」とは何なのか
「ユダヤ人の大量虐殺を求めることは、いじめや嫌がらせに関する大学の規則に違反するのか。イエスかノーで答えなさい」
この質問に
イエスとも
ノーとも 答えず
親イスラエル
親パレスチナ どちら側にも立たず
「状況によっては違反となる可能性がある」
「思想の自由」という
リベラル・アーツ🟰
多様性を理解するアカデミックなコンテキスト
に苦慮した上での解答が
不正解=仇とされ
ハーバード、ペンシルバニア大学学長他数名が辞任に追い込まれた。
今後、ハーバード大学などは専門外の公的な意見を述べない方向となり、エリーティズムはメディアに惨敗、葬むられる結果となった。
映画「白いカラス」原作者 フィリップ・ロスの「ヒューマン・ステイン」を思い出す。
出席をとっている最中
長期欠席者を spook
spooky
なんでやろ? 分からんなぁ
的な軽い一言を吐いた。
「意図」もなく。
しかしながら
この教授には悪しき「意図」があったと
され
黒人差別で
この教授は大学教授の職を永遠に追われることとなった。
なんてことはもはや
小説内だけの話ではない。
多様性を
理解しようとしても
理解しなくても
中立に立って
お茶を濁しても
バッシングを受ける
受話側が
発言者の意図を決める情念「いいね」の数の時代
上記ケースにおいては
大口寄付者が力を持つ米国大学のキャラ
が真理を決めたといえよう
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