見出し画像

オンライン会議で相手の「反応」をどう捉えるか

今回は主として会議のお話なので、趣ある会話の様子をTOPとしてセレクト。

さて、ちょっと前に読んだ『「間合い」とは何か: 二人称的身体論』を元に、ここ最近感じていることを超個人的反省もふまえ、つらつら書いてみようと思う。

オンライン会議続きで鈍感になってるかも?という疑念

リモートワーク中心の働き方になってから、もう3年ぐらい経っただろうか。

思い返してみると、前職では京都と東京にまたがったチームで横断的に仕事をしていたし、出張も多かった。「今日からリモートワークです」と言われたところで、働き方が変わったという変化もそれほど感じなかった記憶がある。

また、現職に転職してから大きな変化があったかという観点でも、日常的なコミュニケーション方法で何か変わったこともなかったので、これも頭に?が浮かぶ。

じゃあ、なんでこんな話なのか?というと、一個人の感覚として相手が捉えづらくなっているような気がしたからだ。

無を感じる想像力

例えばオンライン会議の中で。

あらかじめ決めたアジェンダの中で、わかりやすく・伝わりやすい(と本人は思っている)言葉で、ロジカルに喋る。そして、相手が喋ったことにはその場で時間を要さずに瞬間的に反応しなければならないという感覚が、ここ最近強くなっていると感じる。
(もちろん会議目的・位置づけによるので、一概にマイナスではない)

また、こちらの話したことに対し、相手の反応がわからない場合(例えばビデオオフ、発話者以外は全員ミュートにしている等々)、もう少し突っ込んで反応を確認しにいくか、わかったものとして進めるかという進行方法についても、予め書かれたシナリオをそのままなぞるような違和感を感じている。

書籍に書かれていた、この一節で「うーむ」と頭を捻った。

話し手の「話したい」というエネルギーと、聞き手の「聞いていますよ」というエネルギーが何らかの意味で調和した時、それは、両者にとって心地よい間合いが形成されている瞬間なのだと考えられます。

『「間合いとはな何かーー二人称的身体論」』2020,春秋社,P58

それまでのやり取りから相手の反応を想像して、例えば「反応なし=進めてOK」のような方程式に基づいて会話・会議を進めていることが多いのかもしれない。

相手と背景をどこまで・どう共有しあうか?

では、どうしてそれが起きるのか。

相手の反応が見えづらいことに加えて、おそらく互いの背景情報、コンテクストが不足していることも要因になるだろう。

自分のことを知らない人が多い環境だと「喋っている相手が自分(たち)のここまで知っている」「ここまで喋っても大丈夫そう」という安心材料が少ない。

相手が受け取りやすい形で会話のボール(共通言語を使うとか、皆が知っている単語を使うとか)を作り、相手がきちんと受け取れるようにする工夫も必要になり、余計に決められた感のある会議になる。

時々喰い込みながら準構成員になっていく

書籍 第4章の「溶け込んでいく」では、約3年のお祭りを対象としたフィールドワークで調査者と調査対象者たちがさまざまな出来事を経て交わる様子が例証として描かれていた。

最初は調査対象者を遠くから俯瞰していて撮影していた写真が、徐々に近づき調査対象者の表情や対象者が祭りをどう見ているかの視点まで近づき、一人称的な間合いのとり方になっていく。

時間の経過やその中で発生する出来事を通じて、相互の理解が深まり、当初客観的に見るしかなかったコミュニティの準構成員として認められていく様子が描かれていた。

振り返ってみると、相手への働きかけという意味合いでは、事前に会議の場を準備したり、整えるという以上のことが余りできていなかったように思う。

「広く色々やっていく」ことも必要だが、「直接的に喰い込む」みたいなアクションが必要なのかなと改めて感じた。


さて、明日からまた楽しく頑張ろう。

今回読んだ本:

この記事が参加している募集

#読書感想文

191,671件

いただいたサポートは、大切に使わせていただきます!