読書メモ 『地震と社会 上 「阪神大震災」記』

『地震と社会 上 「阪神大震災」記』
 外岡 秀俊
 みすず書房 1997年



1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災。犠牲者6,434人、負傷者43,792人を生んだ首都直下型地震は、発生から今年で25年が経つ。


著者は震災当日から約1年間にわたり現地を中心に取材を続け、総括的なドキュメントにまとめ上げた。上・下巻からなり、上巻では思想、政府、メディア、医療、防災、建築、都市といった視点から震災を立体的に捉えている。
声高に一方的な主張をするのでなく、慎重に丹念に事実を捉え、ひとつひとつ確かめるように進んでいくパラグラフによって、徐々に震災の全体像が浮かび上がってくる。


宮武外骨による脱天譴(てんけん)論(「天譴」とは天罰のことである)という思想の変節を導入に、通信手段が途絶え「ブラック・アウト」が起きた時、メディアは何ができたのか、また交通網やライフラインの断絶で救急医療はどうなったか、それに続く防災の水利の問題、建築における「関東大震災級の地震に耐えられる」という神話、谷崎潤一郎と賀川豊彦の見た神戸の街、その神戸で戦後、新しい街並みを次々に構想し実現していった原口忠次郎、そして被災の階層性。
著者は点と点を結び線を引き、線と線を辺にして、大震災という多面体を頭上に投影して見せる。その多面体は地上にどのような光と影を生み出すのだろう。


大規模地震対策特別措置法の成立にまつわる問題は、先日のコロナウィルスの専門家会議が解散された件を彷彿とさせる。
高度成長期の1960年代に、地震予知という社会的要請が高まる中、東海地震の危険性が指摘され、1978年の大規模地震対策特別措置法の制定につながるのだが、著者は特別措置法の不自然な構造を指摘する。事実上、学者が「予知」し自動的に非常措置が発動される、その仕組みは社会的な対応の決定責任を地震学者に転嫁するものであり、そこには防災コストを一定水準で抑えるという「社会的圧力」を吸収するために「科学的予知」が必要とされる素地があったと言う。結果的に人々に「科学的予知」が可能であるかのような幻想を抱かせ、東海地方以外の場所で地震が起こる可能性に目を瞑らせた。
一方で、関東大震災時の東京罹災者情報局の活動が際立っている。東京帝大の学生が、徒歩や自転車で情報をかき集めて作成したという東京罹災者情報局のカードシステムは、「安否情報システム」の原型ともいわれ、その手法は現代でも充分に通用するものだろう。「ブラック・アウト」下で人々は「噂」という原始的な通信本能を発揮する反面、このような人情に根ざした、かつ合理性のあるシステムを考案していた。
「救急医療」と「災害医療」の間で断ち切られた医療連携をつなげた大阪市立総合医療センターの活動や、医療ボランティアの存在にも触れている。


著者は危機管理のモデルとして、アポロ13号の地球帰還のエピソードを挙げ、その手法を「ブリコラージュ」と呼ぶ。「ブリコラージュ」とは「寄せ集めて自分で作る」「ものを自分で修繕する」といった意味だ。「月面着陸」という当初の目的を捨て去り、「地球への生還」に向けて全システムを再編成した事例は、日常の発想とは大きく異なる。
突発的な非常事態やレアケース。振り返ってみると、そのような特殊な状況下において、人間は通常時の何倍もの学びを得てきたのではないだろうか。

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