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交流の場を引き継ぐ

去年の大学受験期に、進路が全く決められず、まずは教養だけは身に付けたいっていうことで通信制の大学の学生になった長男。

周りが受験戦争でピリピリしていても、長男は見た目は至って呑気な感じで、鼻歌なんか歌ってて、ちょっと羨ましいくらいだった(苦笑)

その長男が、1週間前から急に勉強し始めた。
ある大学の編入試験を受けるというのだ。

しかも、今まで全くリストに入ってきたことなどない分野。
でも、何かが決まる時ってそんなものかもしれない。

親の私たちは、集中できることが見つかって、目的に向かって身体や生活に締まりが出てきてよかったということで、好ましく状況観察している。

「適当な大学でいいんじゃないの?」といい加減なことを言ったこともあったけど、決まるタイミングも、決め方も人それぞれなんだなだと改めて思った。私のアドバイスを聞いて、テキトーな大学に行かなくてよかった(苦笑)。

誰もいなくなる「場」

長男は、もし編入試験に合格したら、家から出ていくことになる。
末っ子も今まさに受験生で、志望校に受かれば、家から出ていく。
長女は3年前からオーストラリアに留学している。

うまくいけば、来春からは夫婦二人と犬猫亀が家に残ることになる。
そのうち、子供たちが結婚でもすれば、本当にこの鎌倉の家には戻ることはないだろう。

それはめでたいことだけど、やはり寂しい。
今はあまり考えたくないけど、そのうち嫌でも実感するんだろうな。

そこまで考えて、ふと思った。

この「寂しい」と感じる先には、この家に誰も人がいなくなって、シーンとしている風景が目に浮かぶ。

つまり、私も夫も亡くなって、動物たちもいなくなって、そして子供たちも帰ってこないなら、そういうことになる。

おそらく、「寂しい」と感じるのは、この、誰もいなくなってしまう「」に対してなのではないだろうか。

交流の引き継ぎ

昔は先祖から引き継いだ家を何世代も一緒に住み、賑やかな団欒の風景があった。私たちの子供の時代までは、少なくとも私の故郷では、祖父母と一緒に暮らす家が8割以上ある印象だった。

核家族化が進み、老人夫婦だけになっていけば、いずれは老人だけで住むことは困難になり、介護施設に預けられ、最後は空き家になっていく。

私が「寂しい」と感じるのは、いままでにぎやかに人が笑い、食事し、喧嘩し、眠ってきた空間が、そういった余韻を残しながら、空き家になっていく、そしていつか壊されていく、そのこと、その場に対するものだろう思い付いた。

「場」には複数の人や物が存在し、なんらかの交流がある。

そういう場が失われていくことは、身体中隙間だらけになるような寒々しい、不安な感覚が生じる。

田舎に行って空き家を見るたびに、そういったスカスカした寂しさを感じてきた。自分とは関係のない人たちであっても、その空き家が、場がなんともいえない寂しさを醸している。それが耐えられない。

元々誰もいない場所であれば、そうは感じないのだと思う。
宇宙空間ではおそらく、そんな風には感じないはずだ。

交流の余韻が残っている。
なのにその交流が引き継がれることなく消えていってしまうことは、
もしかすると古来、人間にとって重大な損失であり続けたのかもしれない。
人は、一人では生きてこれず、協力しあって生き延びてきたわけだから。

そうであれば、何もこれは私一人に限ったことではなく、人間なら誰もが感じることなのかもしれない、とも思う。

だから空き家を再生したくなるし、コミュニティを作りたくなる。核家族化や地方離れが過度に進んでしまった今、そういう動きは人類を守るための本能的な衝動なのかもしれない。

***

自分が亡くなっても、家族の交流の場が引き継がれていくなら、きっと安心して旅立てるような気がする。

まだ先の話だけど、もし長男が結婚するなら、長男一家に同居してもらえるように、今から可愛げのあるおばあちゃんになる努力をしないと、と密かに思った(笑)。















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