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「捨てる神あれば拾う神あり」を、違う角度から考えてみた

こんな年末になってでも、小規模事業者というものは物悲しいもので、年末の挨拶をしながら、新たなネタを提案したりするものである。

「こんな年末にまで…ウザッ」と思われるのがオチなのだけど、そこは自営業の悲しき性で、どうしようもない。

今日も「前市長が無駄遣いしすぎて全然予算がありませんのや」とやんわり断られ、「そうですかぁ。また何かあれば」みたいな感じでふわふわとその場をやり過ごした。

また断られたなぁ。

いくら何千回何万回とやっていても、どこか残念な気持ちにはなってしまうもので、ため息をつきながら夕飯の準備をし始める。

駅前の安くて鮮度の良いスーパーで買ってきたニンジンを切る。

ウチではニンジンを好んで食べる人はいないけれど、シチューを作るんだったら、ニンジンは必須だ。この前試しにニンジンを入れずに作ってみたら、
シチューにならなかった。

子供は大概ニンジンが苦手で、私も子供の頃は鼻を摘んで食べた口だ。
今でも、好き好んで食べようとは思わない。
けれど、この前のニンジンなしシチューが、あまりにもシチューじゃなかったので、見直した。ニンジンにはニンジンの役割がちゃんとあるのだ。

ニンジンを丸々1本切って、ぐつぐつ言い始めた鍋に放り込む。


不意に降りた言葉があった。

「捨てる神あれば、拾う神あり」

ほんとうだ。そういう言葉が確かにあった。

とはいえ、拾ってくれる神はいつ現れるんだろう。
最初の「捨てる」神は、能動的にこちらから意志を持って近づくけれど、
拾う方の神は、いわば偶然まかせで、こちらから意図し、操作することは一切できない。

いや、ちょっと待てよ。

「捨てる神があるから、拾ってくれる神もある」

とも言えないだろうか。

意外と、「偶然」拾ってくれる神との出会いの方が貴重だったりするものだ。人間、自分から「あぁしたい」「こうなりたい」と思っている間は、なかなかうまくいかないのかもしれない。

意志がどん詰まりになって、どうしていいかわからないような状態になったときにこそ、いい縁に出会うものなのかもしれない。

そう考えると、「捨てる神」が捨ててくれるからこそ、「拾う神」が拾ってくれるわけで、捨てる神にも感謝すべきなのかもしれない、と思えてきた。


この考えをもう少し発展させると、こんなことだって考えられる。

やりたいことをやろうとした時に、思い通りにならないことの方が遥かに多いが、その時その時、必死にやっているうちに、全然関係ないところから助け舟が来たり、全く違う発見をしたりして、結果よかったというようなことってないだろうか。

つまり、意図してやったこと、こうなりたいと意志を立ててやることは、往々にしてその通りにはいかないけれど、結果、「拾う神」と同じように、その後、思いがけずやってくるものに、実はその真骨頂があるということではないだろうか。

意志は常にピエロだけど、失敗して捨てられた後に、自分の思ってもないような素敵な何かがやってくる。
でもこれは、あくまでも最初にピエロが右往左往してくれるからこそであって、いわばピエロなしには手に入れられない境地なのである。

そんなことをぼんやり考えながら鍋をかき混ぜる。
アクをとり、塩味やスパイスを足す。
一旦火を止め、米粉を豆乳で溶いたもの(*)を混ぜ、弱火で再び熱する。

(*)ホワイトソースもどき。ウチの子供たちはこういう”もどき料理”で誤魔化されて育った(苦笑)米粉はちょっと和風になるけど、意外とあっさりしていて美味しい)

今年最後のシチューは我ながら上出来だ。
やっぱりニンジンは偉大だな(笑)




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