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日本文化における「写実」という感覚を考えてみた

ちょっとハードな1日だった深夜なんかに、ノートの端っこに落書きすることがある。猫や犬、花などの絵を描いて自己満足しているだけなのだけど、最近面白いことに気がついた。

素人が絵を描いて気がついたこと

美大で絵を専門的に学んだ人に言われたことがある。
「デッサンするときは、対象になるモノの部分部分を、無理やりでも図形に当てはめて描くといいんだよ」

そのときは、へぇーと思っただけだったけど、数ヶ月経ってから、ふと「見たものを『見えたまま』図形化したらどうなるか」と思ってやってみた。すると、描いた絵が急に立体的に見えてきた。

そのとき、同時に気がついたことがある。
「猫の毛なんだから、ふわっとした質感を出さないと」などと決め込んでいるバイアスを全く無視すること。

さらに、「猫の気持ちになって」というような「気持ち」は関係ないこと。

そうすると、伝わってくるものの質が全く変わることがわかった。

もちろん、こういうのはプロの方々からすれば「下らないことをゴタゴタ並べてんじゃないよ」と失笑を買うようなことだろう。そもそも、こういうのはテクニックの「テ」の字以前の話だ。

そして、夜な夜な真剣にくだらない絵を描いてるおばさんの姿って、ちょっと怖いよね、と自分でも思う(苦笑)

でも、この深夜の落書きの気づきから、あれこれ思うところがあったので、ちょっと自分なりに整理してみようという気になった。

日本文化という文脈の中での「見えたまま図形化」

例えば日本語には「目を三角にして怒る」という表現がある。実際、目が三角になるなんてことはないのに、誰もが「目を三角にして怒ってる」と聞くと、怒っている度合いがわかるし、そういう人には近づきたくない(笑)

私自身、超ド近眼のくせに、人の表情だけはどんなに遠くからでもなんとなくわかる。「今怒ってるな」とか、「なんか嬉しそうだな」とか、初めて会う人でも不思議と分かるし、外れることもない。

「見えたまま図形化」とは、そういう感覚のことなのではないだろうか。

つまり、リアルさや、客観的な実際、ということではなく、実感として得られる感覚、それにより生じる感覚のことを指すのではないだろうか。

例えば、浮世絵は、現実の風物よりかなりデフォルメされているように見える。これは、実感としての「見た通り」を捉えているから。

松尾芭蕉は「造化」という言葉で、俳句の真髄を伝えようとした。それは、自然に「ありのまま」存在するものというよりむしろ、絵を描く時であれば、個々の中で図形化された見たまま、つまり「創造的ありのまま」のことではないだろうか。

小津安二郎監督は、泣く演技の出来ない子役に「後ろを向いて笑え」と言ったそうだ。意味よりも型を追求した方が、より真に迫ると判断した結果だろう。

この「見えたままを図形化する」ということが、ある意味日本文化における写実という感覚ではないだろうか。

文化という文脈で「写実」の意味が変わる

日本に長く住んでいたアイルランド人の友人が、20年余の日本での生活を終えて、アイルランドに帰国することになった。

帰国前、彼は私にこう言った。

「私たち西洋人は、マリア様にお祈りするとき、まるでマリア様が目の前にいらっしゃるかのように、心を込めてお祈りする。でも、日本人は念仏を唱えるとき、意味は分からなくてもいいから、とにかく唱えなさい、という。それが、自分にとっては最後まで理解できなかった」

薩摩琵琶は師範級、古典も私よりずっとよく知っている彼にこう言われて、「そこ?」と腑に落ちなかった記憶がある。でも確かにそこは、日本文化の根幹に関わるような重要な部分だと思う。

日本人にとって、神仏を祈る時に最も大事なのは「心を込める」ことではなく、「無心で」祈ることだ。
むしろ、念仏を唱えれば無心になれる。無心であるからこそ、天に思いが通ずる

日本文化においては、気持ちや心より身体や感覚という、どちらかといえば非言語領域の世界が大事にされてきたのではなかったか。むしろ、心に念があるとか、作為的に何かをすることは、粋じゃないとされてきたのではなかっただろうか。

明治以降、日本の写実はどうなったか?

身体や感覚という世界は、元々言葉にならないし、言葉にすることを誰も思いつくことさえなかった。それだけに、明治以降の欧化啓蒙政策において、その領域は隅に追いやられてしまった。

この日本的「写実」の意味も、「『心』や『精神』に対する『見た目』『表層』」にすり替えられてしまった。

「あなた方日本人の感じている『三角の目』みたいなものは心や精神のような尊いものではなく、単なる見た目でしょ。そんなの野蛮だし、幼稚よ。それより中身が大事なんだから、心を描かなきゃダメよ」

と、西洋人に言われたのを鵜呑みにして、これまでの日本文化の根幹を徹底的に排除し、欧化政策に舵を切ってしまったのではないだろうか。

新しい生活様式の中での写実

「三角の目」は、ただ視覚に終始した図形ではなく、その時の実感として見えた創造的な図形である。これは、同じ文化を共有するものなら、誰もがそうと感じるのに、異文化の枠内では、感覚的に全く共有し難い、といった性質のものなのだと思う。

異文化交流は、だからこそ様々な発見があるし、常識が覆される快感もある。

本当は、明治維新でそういうフラットな関係の文化交流と、それによる自国文化に対する気づきがあったら、令和の日本の様相もだいぶ変わっていたのかもしれない。

歴史に「もしも」はないので、それはそれとして必然があったのだろうし、だからこそ、with コロナ時代の私たちは、元祖・日本的写実を思い出し、生活の常識を覆しつづけ、新しい生活様式に変えていかなくちゃと、切に感じるのである。

ということで、深夜の落書きコーナーは、おばさんの文化探究活動として続けていこうと思う(笑)


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