リアルさって何だろう。バイアスがはじける瞬間 『山口善史木彫展-集注の型-』
この前の日曜日(7/26)、山口さんの木彫展の最終日に滑り込むことができた。
山口さんは3年に一度くらい、木彫展をされている。
最近は目黒区美術館が根城になっているとのことだった。
山口さんは、何度か知り合いのジャズミュージシャンのライブでお見かけしたことはあったけれど、作品は初めて見た。
久しぶりに美術館に行った喜びも相まって、「やっぱり、ナマはいいなぁ〜」と心から思える素晴らしい木彫展だった。
大体、美術展などに行って感想を書こうとしても、思った通りにはいかず、必ずズレるので、普段は書いて形にしようとは思わない。
ただ今回は、少しでも多くの人に、彼の素晴らしさを知っていただきたい!と強く感じたので、そのズレも承知の上で、どこまで実感に迫れるか、実験のつもりで書いてみたい。
お付き合いいただければ幸いです。
「集注の型」のリアルさ
「集注の型」展の作品は全部で8点。一番奥の1点以外は全て頭像もしくは胸像。
驚いたのはそのリアルさ。
例えば、入り口の「現代の人」と「昔の人」。
どこから見ても確かに現代の人と、昔の人である。頭像なので、物理的に時代を示すものは、髪型ぐらいしかないのに、その人がどんな性格で、どんな生活を送っているかまでわかるようなリアルさがある。
8体全部、どこかで出会ったことのあるような人たち。黙っているのに語りかけてくるような空気感を持っていた。
山口さんとのやりとり
ちょうど山口さんご本人がいらっしゃったので、愚問をぶつけてみた。
私「作品を作るときには、写真など何かご覧になるのですか?」
山口さん「いえ、写真を見て作ることはないです。それはよくないのでやっていません。モデルがいるわけでもないですね。参考にすることはありますが。これまで出会った人や昔の仏像など、これまでの自分の中の蓄積から、自分なりにイメージを膨らませて、デッサンしていきます」
私「顔だけなのに、体全体が空想できます。何か特別な工夫をされていますか?」
山口さん「そうですね。顔だけという人はいないので、やはり全身を空想して作っていますね」
一番奥に展示されていた全身の小さな彫像は、着物姿で正座する男性だった。小さいのに、すごい吸引力というか、どこから見てもその彫像の中に引き込まれ、集注していく。
彫像の着物の男性は、360度どの角度からみても、嘘がないというか、その角度なりのその人なんだなというのがわかる。
それを見ているうちに、例えば、よく知っている人でも、一つの角度から見た彼(彼女)しか知らないことに気づいた。
何度も会っているし、全角度からその人を見る機会など、山のようにあったはずなのに、ある一方向しか知らないーー。
これはどういうことなのかなと思った。
バイアスに揺さぶりをかけられる出会い
結局、人は自分のバイアスからなかなか離れることはできない。人に会っていても、同じ角度からしかその人を感じていないということなのだろう、と思った。
ということは、コミュニケーション自体も、お決まりのものにしかなり得ない。手慣れたもの、手垢のついたものから離れるのは並大抵ではない、と改めて感じた。
芸術作品に触れる時、私たちは、自分のモノの見方がいかに偏っているか思い知ることになる。
山口さんの作品は、なんなら、生身の人間よりももっとリアルに感じる。そのリアルさは、偏ったモノの見方を超えたところから来る。だから自分自身のモノの見方から生き様に至るまで、「大丈夫か??」と揺さぶりをかけられる。
新しい視座の発見が、新しいビジネスを生むのだとすれば、やはりこのような芸術作品を鑑賞・体験することは、ビジネスパーソンにとっても、とても大切なプロセスのような気がする。
というより、人間が生きていく上で、芸術体験ほど重要なものはないんじゃないかとさえ思えてくる。
最近、「アート思考」という言葉をよく耳にするが、まさにそういう話なのではないかと思う。
また3年後、山口さんの作品がどう深まっているか、とても楽しみである。