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アナログとデジタル〜一期一会を考える〜

アナログの語源である「アナロジー」

古代ギリシャ語で「比例」を意味する ἀναλογία アナロギアーに由来し、「類似、類推、類比」などの意味があるそうだ。

アナログとは 

「アナログ」は、大辞林によると「物質・システムなどの状態を連続的に変化する物理量によって表現すること」。 また、化学では「ある物質と類似しているが同一ではない物質のこと」だとのこと。

似てても決して同じじゃないし、どこまで行っても同じにはならない。
アナログには、完全なコピーは絶対にできない。

どんなに精密な機械製品でも、必ず多少の誤差が出るし
設計したものと実際のものづくりではしばしば食い違いが出てくる。

完コピ可能なデジタル

一方、デジタルは、いくらでも完璧に同じものをコピーできる。
デジタルには誤差の出る「現場」がなく、計算さえ合っていれば、どこまでいっても「同じ」である。

私のような古臭い人間は、未だにデジタルには懐疑的で、例えば、映像や写真などをコピーしたら、本当に完璧に同じなのか、一瞬不安になる。データのサイズや量は確かに同じだけど、何かちょっとした差異があるんじゃないか、と。

ある意味、デジタルは人間の夢だったのかもしれない。だからこそ、他の道具と違って翻弄されやすい。AIに仕事を取られるという発想も出てくる。でもAIは、単なるデジタルデータの集積でしかない。膨大な人の経験の「コピー」なのだ。

最近では、人のことを「単なるアルゴリズムでしょ」という声も聞く。もしそうだとしたら、人間は予定調和でしかなくなり、想定外には全く対応できなくなる。

人をそのように捉えるなら、AIに置き換えたって問題ないだろう。だけど、もしそうなら、人類はどうやって進化・変化してきたのだろう。狩猟採集から、農耕へ、そして都市生活へと、どうやって発展し得たのだろう。

人の即興性や創造力

人には「臨機応変」に対応する即興性や創造力が備わっている。

だから想定外のことが起こっても対応してこれたし、苦しいときは、状況を楽にしたり、豊かにしたりする技や道具、体験などを生み出すことができた。

私たちの祖先は、そうやって様々な試行錯誤を繰り返し、時には大きな犠牲を出しながらも、どうにかこうにか生き延びてきた。

そこには、常に完コピができる整然としたデジタルサイドから見たら、無駄なものも多く含まれていただろう。でも、無駄があるからこそ人は「思い出」や「感傷」、それに基づく記憶、「文学」や「文化」などを生み出すことができたのではないだろうか。

中国の美術家、劉巨徳氏の作品を体験して

以前、中国を代表する美術家で、モンゴル出身の劉巨徳氏の個展を見る機会があった。

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彼の作品の中に、古代から脈々と受け継がれている芸術へのまなざしや、技への強烈な憧れのようなものを感じ、衝撃を受けた。

文化大革命で、歴史的建造物や伝統工芸などは徹底的に破壊されたのに、目に見えない、身体の中にある中国文化やモンゴル文化的なものは、しっかりと受け継がれている。そのことに、驚きを禁じ得なかった。

いい加減な人間の新しい活路

完コピ可能なデジタル社会で、絶対完コピできない人間が新たな活路を見出せるとしたら、役に立たない、いい加減な、数値では表せない「文化」なのではないだろうか。

コピー不可能で、環境に合わせて即興的に変化すること。

そんな一期一会を創り出すことが、私たちが今、できることなのではないかなと思う。


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