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自己紹介その1 <仕事編>

私の仕事歴です。
人と人。
人とコト。
何かと何かを「つなぐ」が仕事でした。
つないで生まれたものは、新しいつながりだったり、
イベントだったり。
ほとんどが「形」のないもの。
だから書き留めないと「なかったこと」になってしまうー。
自分のことなのに忘れちゃうし。
棚卸しを兼ねた自分用の記録も兼ねて、書き出してみます。

※2024.8 追記あり

中学生情報誌編集からスタート

1966年生まれ、横浜育ち。
企業戦士の父と薬剤師で多趣味な母のもとで、新興住宅地で子ども時代を過ごしました。典型的な高度成長時代の申し子
小学生の憧れの職業は太陽にほえろ!の刑事、女優、「りぼん」の編集さん。
高校時代になりたかったのは、「お菓子のパッケージの裏の文章を書く人」。(コピーライターという言葉を知らなかった)

都内の大学を卒業後、大手教育産業に入社。

中学生対象の通信講座「進研ゼミ」の部署で、教材についてくる中学生向け情報誌と、保護者向けの冊子の月刊冊子2誌の編集を担当。

エンタメ、人生相談、漫画のコンテストなど、今思えばなかなか攻めているサブカル寄りの冊子で、企画から自由に作らせてもらっていました。

保護者向けのほうは生活情報誌。
人気料理研究家のコーナーがあったり、表紙は安西水丸さんだったりと贅沢な冊子でした。

目の前の仕事は楽しくて充実していたものの、右肩上がりの会社の勢いと大きな組織の文化に戸惑う要領の悪さと、多忙の先が見えない不安をお酒で誤魔化す日々。
吉祥寺で一人暮らし。

この頃の同期や先輩は今でも、よき相談相手。ありがたいなぁ。

京都の出版社へ。関西人になる

本屋さんに並ぶ一般書の仕事がしたくて、通信講座の会社を退職します。

京都にUターンした両親の家に引っ越し。
関西のタウン誌で少し働いたあと、京都の一般書の出版社に入社。
京都らしく、生け花や日本画などの分野の実用書やムックなどの編集などを担当しました。
伸び盛り(に見えた)会社で定年までがんばる、の勢いで働いていたのですが。

私が属していた部署全員がある日突然、役員に呼び出されます。
「辞めてもらえませんか」。

同族による贅沢三昧の放漫経営のため会社が傾き、銀行からのお達しで突然のリストラを遂行したのでした。
勧告から1週間足らずで机を片付けて会社を去りました。このとき28歳。

リストラ → フリーで美術編集 → 広告会社  

リストラは社内の人間を分断するということを学びました。
辞めさせられた人、保身に走る人。
会社に残って残務処理をする仲間もいたので、退職の理由を仕事関係の人に言えなかったのが一番辛かった。(どうせわかることだから言えばよかったかも)

人間不信に加えて、のしかかる社会保険料。
お金を使うのも、人に会うのも怖くなり数か月間の半引きこもり生活を送りました。

そんなある日、救いの神が現れます。
以前一緒に仕事をした東京のベテラン編集者さんが、これから担当する大手出版社の企画を一緒にやろうと声をかけてくださったのでした。フリーとして日本画の画集の編集などに携わることになりました。この頃に見た本物の芸術や学んだこと、出会った方々とのご縁は宝物です。

その後大阪の中堅の広告代理店に入社、メーカーの広報誌の制作などを担当します。この間に結婚、33歳のとき出産を機に退職。
その会社では女性社員は結婚か出産退職が常で、育休を取る社員はまだいないという時代でした。

ワーママデビューはライター業

子どもが小学生くらいになったら本格的にまた働こう、と当面は赤ちゃんとの暮らしを楽しむ予定でした。

結婚と同時くらいに会社員だった夫が脱サラして事業を始めたのですが、なかなか軌道にのらず、会社員時代の貯金も底をつくのは時間の問題。
とにかく私も働かないと! 
専業主婦生活は半年で終了。

それからは、思いつく仕事を片っぱしから見つけてはトライしている時期でした。
編集時代の縁で文庫本やムックの連載のライティングなどなど。
お寺や焼きものについての本で得た知識は後々とても役立ちました。

子どもは仕事のあるときだけ母に預けました。途中からは保育園にお世話になりました。

求人広告で見つけたフリーペーパーのライターの仕事は、実情は、レストランや美容院への飛び込み広告営業でした。
今思うと広告予算なんてあるはずもない個人商店への営業。
門前払いにめげず、素人なりの集客のアイデアを提案したら、少しずつ広告を出してくれるお店も出てきました。
「超」がつく人見知りを克服して「こんにちはー!」と初対面の人とも話せる度胸が身についたのは、多分この仕事のおかげかもしれません。

雑貨店に17年 広報とイベント企画に燃える

そんなこんなで娘が3歳のときのこと。
今までと違うジャンルの仕事との出会いは、全くの偶然でした。
できたばかりの雑貨店でまさか17年も働くことになるとは。
友だちに誘われて、家庭料理の教室もしていたそのお店に、生徒として通うようになったのがきっかけでした。

最初はパンフレット作りなどをボランティアで手伝っていました。
次第に「毎日の食を大切に」というコンセプトに共感し、
「このお店の役に立ちたい」とスタッフになったのです。

京都郊外の、料理講師がオーナーの個人商店で、スタッフは同世代の主婦。それぞれが得意なことを持ち寄って、お店づくりに奮闘してきました。素晴らしいチームワークでした。

私は広報を中心に、ワークショップやイベントの企画、仕入れ先や作家さんの開拓、など、ありとあらゆることを経験しました。もちろんお店に立ちながら。
様々なことを「つなぐ」のが仕事でした。

だんだんとお店の認知度も上がり、オーナーにレシピの仕事や大手通販会社の雑貨の企画などの声もかかるようになり、その窓口やマネジメントを担当しました。

レシピ本の出版の際には、レシピの整理や構成を考えるなど編集的なことにも関わる機会も与えていただきました。
料理のアシスタントも経験したおかげで、ありがたいことに、おかずのレパートリーが増えました。

お店のブログは約15年、ほぼ毎日、食に関することやお店の出来事などを綴っていました。
17年間続いた月刊のフリーペーパーなど、いわゆる「中の人」として発信していました。

最初の数年間はお盆とお正月以外、連続した休みもなく、皆ほぼ手弁当同然でした。
それでも頑張れば頑張るほどお客様が増えて、喜んでくれる人がいて、
仕事の幅が広がるのが楽しくて、
寝ても覚めても仕事のことばかり考えていました。
というか今思えばかなりの重症の仕事中毒だったと思います。

一方「丁寧な暮らし」を提案しているのに、自分の暮らしはおおざっぱ。鍋に火をつける気力がない日もありました。
子どもの宿題の丸つけもほとんどできない母親でした。

気がつくと保育園児だった娘は20歳になり、自分の道を歩み始めていました。

台湾と出会いワーママ卒業

2020年春、コロナ禍の始まりの頃。
17年働いた雑貨店を卒業しました。

子育て(ときどき介護)と仕事の同時進行の日々に、一旦区切りをつけ、立ち止まりたくなったのです。
ずっといた安全な場所を出て、新しい世界を見てみたいという気持ちもありました。
大好きだった仕事とお店を辞めたのは、ある出来事がきっかけなのですが、これについては書くのには時間がかかりそうです。

その少し前から旅行をきっかけに「台湾」に魅了され、台湾から学んだことをシェアしたい、人生後半のライフワークにしたいと思い始めていました。

ずっと目の前の仕事と家を回すことしか見てこなくて、後回しにしてきた「自分」と向き合う時間を必要としていたのかもしれません。

コロナで我が家最大の危機!

フルタイムを卒業した2020年からは、仲間と台湾にまつわるイベント「台湾小箱」を企画しました。

イベントをきっかけに台湾観光協会のセミナーのコーディネートの依頼をいただいたり、
思いがけないつながりがどんどん生まれました。
(台湾活動については別途書きます)

ところが、なかなか予定通りにいかないのが人生。

順調だった夫の仕事が、コロナの影響で大打撃を受けます。

好きなことは二の次、まずは日々の糧。
求人サイトで見つけた百貨店などでアルバイトをしながら、次の働き方を模索する日々が続きました。

校正の仕事はじめる。
台湾・本を仕事に

2022年末からは、商業校正の仕事を始めました。
何周か回って、文字の世界に戻ってきた不思議な感じ。

最近は台湾イベントのほかに、ライフワークとして小さな読書会をマイペースで開いています。

テーマは「希望」。

台湾のことだけでなく、同世代のこれからの暮らし方や社会のことを考えたりする情報交換の場となっています。

棚卸しして気づいたこと

ここまで書いてきて。

結局私は

・好きな仕事でしか最大限に力を出せないやつなんだ

・お金を稼ぐのが苦手だけど

・全ての経験が愛おしい

ということに今更ながら気づいてしまいました。

まわりの方々に恵まれていたんだなあということ、
動けばそのたびに何かが始まっていたんだということも。

 「希望」のために
 ・台湾
 ・つなぐ
 ・本
を仕事のかたちにするために

言葉にする練習を続けていきます。

【2024.春追記】

2024年春より、大手食関連メーカーの広報誌編集(派遣社員)

消費者側からしか見ていなかった「食」に生産者の視点が加わることになり、日々学んでいるところです。













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