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男同士の絆 ホモソーシャルとは - 自分の経験を振り返って

こんにちは!今回は、男性の生きづらさやあり方について考える際や、性差別について考える際に重要な「ホモソーシャル」という概念を詳しく説明し、自分の経験を振り返ってみて思うことを綴ろうと思います。

ホモソーシャルとは

ホモソーシャルとは、「恋愛や性を伴わない同性間の結びつきや関係性」を表します。同性愛の関係に似ているけれどそうではない、同性間の社会的関係を表すために、ホモセクシュアル(同性愛)からもじって作られた言葉です。

中でも特に、女性及び同性愛を排除することによって成立する、「男性同士の緊密な関係や結びつき」を表します。

例えば、男同士でいると、男たるもの女が好きで、女性経験の豊富な方が偉いといった雰囲気があります。女性をランクづけしたり、経験人数で競ったりして、ワイワイ盛り上がる。会社の上司が部下を性風俗やキャバクラに連れて行って、男らしさを示す。このような、女性をもののように扱ったり、蔑視したりした会話や経験をしたことがある人はいるんじゃないでしょうか。

こういうときは異性愛が前提となっていて、同性愛はないもののように扱われます。また、めちゃくちゃ仲の良い男同士が、「もしかして2人付き合ってんの?」なんて聞かれて、「そんなわけないだろ、気持ち悪い」などと同性愛を悪く言いながら同性愛関係にないことを主張したりします。

このように、女性や同性愛を排除・蔑視することで男同士で仲を深め、ワイワイする雰囲気を、ホモソーシャル(な関係)と呼びます。


ホモソーシャルに伴う女性蔑視と同性愛嫌悪

上で見たように、男性同士のホモソーシャルな関係には、ミソジニー(女性蔑視)とホモフォビア(同性愛嫌悪)が潜んでいるのですが、なぜこのようなことが起こるのでしょうか。

ホモソーシャルの概念を普及させた英文学者のイヴ・K・セジウィックは、「男ー男ー女」の三角関係においては、欲望の対象との絆よりも、同じ対象を求めるライバル同士の絆の方が強くなると指摘しました。女性を媒介にしたホモソーシャルな関係で男同士の絆が深まるのは、ライバル同士が女性の意志や欲望を軽視ないしは無視することで、男性中心的な社会のルールを維持しようと結託し、同盟を結ぶからです。

また、セジウィックは、ホモソーシャルな関係が、ホモセクシュアルな関係をはっきりと拒絶することに着目し、なぜホモフォビアを伴っているのかを考えました。セジウィックによると、女性を媒介にしたホモソーシャルな絆では、そこに女性がいない場合に代替物としてホモフォビアが求められるといいます。媒介となる女性がいない場合、「男の世界」のルールの維持は、その世界から外れたものとしてのホモセクシュアルな関係を見下すことで可能となるのです。そして、ホモセクシュアルな関係が「男の世界」のルールに従わないものと規定され、排除と差別の対象だとされることによって、「男の世界」の住人は排除と差別を逃れるためにそのルールを遵守し維持するように方向付けられます。

加えて、ホモソーシャルな関係がホモセクシュアルな関係に似ていること自体が、「男の世界」のルールの維持にとっては重要です。両者が似ていることによって、ホモソーシャルな絆で結ばれた男性たちは、「私たちの関係はホモセクシュアルとは違うのだ」と繰り返し確認しなければならなくなります。この繰り返しの確認によって、「男の世界」のルールは何度も意識化され、そのことによって強固なものとして維持されていく。そうやって男性同士のホモソーシャルな関係に、ホモフォビックな雰囲気が形成されていくのです。

こうして、男同士のホモソーシャルな関係では、男性中心的な社会のルールを維持するために、女性差別・男性同性愛差別が伴われるのです。


自分が経験したホモソーシャルとその抜け出し難さ

僕も、高校や大学で男性の友人たちと一緒にいた時は、ホモソーシャルな雰囲気になることが多かったなと思います。

例えば、男子だけでいると大体女の子のタイプは、とか、自分の中のランキングはこうだとかいう会話をしていました。経験人数が多くて、セックスが上手い方が偉くて、女が好きで女遊びしていないと男性として劣っているという雰囲気もありました。
今思うと、このような関係の中で、同性を好きになる人や、恋愛感情や性的感情を持たない人もいるということは前提にしていませんでした。

今となっては、誰かを傷つけたり排除したりして繋がりを深めるなんて、間違っていると思います。でも、当時の自分にとって、この関係から抜け出すのは非常に難しかったのです。

こうした会話をしていると、自分は選ぶ側であり、この社会は男性中心に回っている、自分は男性として特権を持って生まれたんだという勘違いに容易に浸ることができました。男性として生まれた自分の(偽りの)強さを確認できて、とても甘美だったのです。また、こうした話題は簡単に友達と盛り上がって、仲良くなれたため、簡単に仲を深める便利な道具として、こうした話題を利用していたなと思います。この便利さや甘美さによって、疑問を突きつけることなく、1プレイヤーとして参加してしまっていました。

それに、たとえ違和感を感じ、疑問を感じていたとしても、それを表明するのはかなりハードルが高い雰囲気だったと、今になって思います。違和感を押し殺しながら、ホモソーシャルな雰囲気に巻き込まれていた人もいるんじゃないでしょうか。


終わりに

改めて、ホモソーシャルな関係は、抜け出すのが本当に難しいなと感じます。

でもやっぱり、誰かを傷つけたり排除したりして繋がりを深めるなんて、間違っていると思うし、そのような繋がりは必要ない。
僕は自分の過去を振り返って、自分達のしていた会話は誰かを傷つけたり、排除したりするものだったと思い、罪悪感を感じます。そして、今反省したからといって、過去に誰かを傷つけた事実をなかったことにはできないです。さらに、フェミニズムを学んでいると、自分自身の中にあった差別的な感情と葛藤することになります。

これらの葛藤に目を瞑らず、なかったことにせず、今の自分を変えていきたいとずっと思っています。この先ホモソーシャルな会話が起きた時などは、違和感をしっかり表明するなど、自分のできることをしていきたいなと思います。


〈参考文献〉
イヴ・K・セジウィック『男同士の絆: イギリス文学とホモソーシャルな欲望』 上原早苗、亀澤美由紀訳、名古屋大学出版会、2001 年
森山至貴『LGBTを読み解くークィアスタディーズ入門』 筑摩書房、2017年



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