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無知と自由

無知とは何か推論してみよう。自由な社会では各々が自分の関心のある事柄を追究していくことで自ずと仲間が出来て(研究者仲間、趣味の仲間、スポーツチーム等)、次第に各分野の専門性も高まるようになる。つまり、多様な他者が多様な目的を追求することによって、個人の知識の範囲は受動的に狭くなっていく。

そのように仮定すると、物事に対して無知であることにそれほど恥じらいを感じなくても良い気がしてくる。自分が何を知ろうが知るまいが結果的に私の知識量は社会全体の集合知と比較して相対的に狭まっていくわけで、さらにいえばもし今以上に日本の居住者の多民族化が進むとすれば私の見知っている日本社会の有り様は大きく変容していくに違いない。街を歩いていて、私の知らない言語の会話を耳にするような状況がすでに当たり前になってきている。

しかしながら「情弱」という言葉に代表されるように、現代社会において個人に大きな利益をもたらしたり、リスクを回避するうえで有用な情報に対して無知なままでいるのは基本的にネガティブな事として捉えられている。人々は情報弱者として扱われることを恐れて主体的にそれらの情報を獲得しようとするだろうし、かつそれらを実践的な知識に変えようとするだろう。好奇心によって知識欲が生じる場合とは別に、不安によって知識欲を掻き立てられる場合も有り得るのだ。

加えて「本を読んでも特に変わらない」という意見を時折見聞きすることがあるけど、それはそれで大人げない発言だと私は感じる。そんなことを言いだしたら「あと百五十年すれば地上から今いる人間は皆いなくなるのだから、真面目に考えても無意味だ」と言い切ってしまうのと大差ないというか、安直なニヒリズムに陥っているように思える。

虚無主義に対抗するには絶えず何か興味のある事柄に対して探究心を持つこと。それに関心を抱くか失うか、その最終的な決定権は自分自身にある。その好奇心が前向きに生きようとする強い動機付けにもなりえる。

その一方で、人々の多様な志向性を野放図にしてしまうことによって、従来社会のなかで暗黙の裡に前提としてきたコモンセンスを喪失してしまう可能性もある。共同体のなかで人々の信仰心が薄れ世俗化することによって、セクシャリティの規範も以前とは大きく様変わりしていく。無論女性や性的マイノリティの人々の権利は尊重されるべきであるが、場合によっては当事者間の合意形成に困難が伴うような事態も起こり得るだろう。それまで見知っていた社会が変容してそこから取り残されたような心境になり、結果として進歩的な考えを否定する人が続出しても何ら不自然ではない。